網戸村(読み)あじとむら

日本歴史地名大系 「網戸村」の解説

網戸村
あじとむら

[現在地名]旭市イ

成田なりた村の東に位置し、かつての椿つばき海の南岸にあたる。多古銚子たこちようし道が通る。天正一八年(一五九〇)の諸大名旗本分限帳(内閣文庫)に足戸あるいは蘆戸とみえる。寛文八年(一六六八)の年貢割付状(松戸家文書)に高二六七石余とあり、ほか東漸とうぜん寺除地一五石七斗があったが、のち上野うえの新林が開墾されて幕府領となり、宝暦二年(一七五二)に三五石余が高入れされて惣高三二一石余となった(外口家文書)。領主は天正一八年に木曾義昌が網戸城に一万石で封ぜられたが(前掲分限帳)、その子義利のとき慶長五年(一六〇〇)改易となる。現東漸寺はその居館跡という。のち幕府領を経て同六年青山忠成領、元和九年(一六二三)幕府領、寛永八年(一六三一)旗本小笠原領、同九年同土屋領、寛文一〇年再び幕府領と変わった(旭市史)。この間さき村と村境争論があり、延宝五年(一六七七)再燃して両村境が確定、同六年には東足洗ひがしあしあらい村・西足洗村との村境争論で両村との境も確定した。一連の村境争論を通し近世村落として確立するのに対応し、村内でも寛文八年に年寄百姓小百姓との争いが起き、小百姓の成長ぶりがみられる(以上、松戸家文書・網戸区有文書)

寛文一〇年からの椿海の干拓による新田への出作で村の耕地が一挙数倍に増大したと同じ効果をもったが、一方では新川や惣堀の普請人足を負担、なにより椿海という大用水源を失うことになった。

網戸村
あじとむら

[現在地名]小山市網戸

東をおもい川、西を与良よら川がいずれも南西流し、思川右岸に沿って集落があり、対岸乙女おとめ河岸とは渡船で結ばれる。与良川対岸は寒川さむかわ村。文治三年(一一八七)一二月一日の源頼朝袖判下文(皆川文書)に「寒河郡并阿志土郷」とあり、この地の地頭職が源頼朝より小山七郎朝光(結城氏)の母に譲られている。このことは「吾妻鏡」同日条にもみえ、「網戸郷」と記され、女性ながら大功があるためと付記されている。朝光の子朝村は網戸郷を領し、網戸氏の祖となった。弘治三年(一五五七)六月一七日の足利義氏朱印状(野田家文書)によれば、古河公方足利義氏は網戸郷を馬場ばば奈良木ならのき両郷とともに野田左衛門大夫に与えている。この時点では網戸宮内大輔という在地武士の存在が確認できる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報