給黎院(読み)きいれいん

日本歴史地名大系 「給黎院」の解説

給黎院
きいれいん

鎌倉時代から室町時代にみえる院名。現喜入町に比定され、給黎の地名は室町期以降には喜入とも記される。薩摩国建久図田帳によると、「給黎院四十町」は島津庄寄郡で、郡司は小太夫兼保、地頭の記載はないが、喜入肝付家本では「給黎郡四十丁」とあり、郡司兼保のほかに地頭は右衛門兵衛尉(島津忠久)と記される。兼保は前掲図田帳に和泉いずみ(和泉庄、現出水市)三五〇町の下司としてもみえ、伴姓和泉氏であった。建久八年(一一九七)一二月二四日の島津忠久内裏大番役支配注文(旧記雑録)には給黎郡司と和泉小太夫の名がみえる。寛喜元年(一二二九)九月五日のものとみられる関東下文と同年一〇月六日の六波羅下文(ともに肝付文書)によると、鎌倉幕府は池田師忠の乱妨を停止し、兼保の孫保久に和泉庄弁済使下司職とともに「給黎院郡司職并上籠・石村両村」の領知を認めている。なお上籠うえごもり村・いし村はともに給黎院のうちで、現在の中名の淵田なかみようのふちだに上籠城跡があるが、石村については比定地未詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報