粟田郷(読み)あわたごう

日本歴史地名大系 「粟田郷」の解説

粟田郷
あわたごう

和名抄」高山寺本は、「阿波太」と訓じ「有上下」と記す。刊本は「阿波多」と訓ず。後、上粟田郷・下粟田郷の二郷に分離・独立した。現東山区に粟田口の地名を残す。

郷名の初出はかなり後のことであるが、郷そのものは古くからあったようだ。粟田臣(日本書紀)・粟田直(「天平五年愛宕郡某郷計帳」正倉院文書)・粟田忌寸(同文書)・粟田朝臣(新撰姓氏録)といった粟田氏の名が史料上に散見しており、これらが粟田郷に由来することは疑いない。古来よりこの地は山城北部(後の平安京域)から東方の東海道・東山道へ抜ける交通の要衝であり、平安京が営まれてからは更にその位置は重要となった。従って、当初は現在の粟田口周辺にのみ限られていたものの、平安時代以後に北方岡崎おかざき(現左京区)へと発展し、次いで二郷に分割されたのであろう。

粟田郷
あわたごう

「和名抄」高山寺本は「栗田」と記す。東急本は「安波多」と訓ずる。天平神護二年(七六六)一〇月二一日付越前国司解(東南院文書)に郷名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報