篠村(読み)ささむら

日本歴史地名大系 「篠村」の解説

篠村
ささむら

[現在地名]東広島市八本松はちほんまつ町篠

黒瀬くろせ川上流に位置し、北に虚空蔵こくぞう(六六六・一メートル)がそびえ、東・西も四〇〇―六〇〇メートル級の山に囲まれる。南は正力しようりき村に接し、東の造賀ぞうか村、西の志和東しわひがし村、西北のうち村へはそれぞれ峠越の道が通じていた。志和東村との間には並滝寺なみたきじ池があり、黒瀬川の水源となっている。

文和三年(一三五四)三月一八日付源頼忠寄進状(磯部文書)によると、佐々ささ村地頭三戸(源)頼忠が佐々村大明神に一反半の地を寄進しており、この佐々村大明神は現岩蔵いわくら神社で、「安芸国神名帳」所載の佐々村明神にあたるとされる。このとき頼忠が寄進した手作地(正作)江四郎名・西念名はともに文政五年(一八二二)の篠村水帳に小字名として残る(広島県川上村史)

篠村
しのむら

[現在地名]亀岡市篠町篠・篠町野条のじよう

北は馬堀うまほり、北東は山本やまもと、南は王子おうじ、南西はもり広田ひろた浄法寺じようぼうじ、西は柏原かせばらの村々に囲まれ、山陰道(京街道)を京都からおいさかを越えて、丹波へ入った地方の中心。古代より交通の要衝として栄えた。

中世には説話・軍記物・絵巻物などに多く篠村の名がみえる。「宇治拾遺物語」に、「丹波国篠村平茸生事」の話があり、「今昔物語集」巻一六に「丹波国郡司造観音像語」がある。後者穴太あなお寺の観音造立に関するもので、京へ帰る仏師を郡司が篠村で待ち伏せ矢を射て馬を取り返したという。弘安七年(一二八四)秋、かつら(現京都市西京区)を旅立った一遍は丹後の久美くみの浜(現熊野郡久美浜町)に向かう途中に篠村を訪れた。

篠村
ささむら

[現在地名]物部村ささ

上韮生かみにろう川の支流で、矢筈やはず(一六〇六・五メートル)南麓を発して南流する笹川の流域一帯に集落が点在する。村の北にそびえる山を俗にササハゲとよび、笹のみで樹木のない山だったのが村名となったという。「笹」とも記す。「土佐州郡志」は「東西一里二十町南北二里十五町、戸凡三十六其土黒」と述べ、「笹・松竹・多伊奈路・平石・加土屋・明之平、惣曰笹村也」と集落名を記す。現在は笹川上流を笹上ささかみ、下流を笹下ささしもと分けるが、笹下の諸集落はともかく、笹上は交通の便が悪い。笹上の角屋かどやの西には高板こうのいた(一四二七・一メートル)がそびえ、角屋の北の明賀みようがからは道は東北に向かって九十九折の難路を登り、矢筈山南方の峠を越えて阿波国に入る。一方明賀から西北に向かう山道は笹越の郡境を越えて長岡郡豊永とよなが(現大豊町)に入る。

篠村
しのむら

[現在地名]大和町篠

北西から南東へ流れる大田おおた(現芦田川)支流の篠川沿いに展開する農村。備後国世羅郡に属した。

近世初頭までは萩原はいばら村の一部で、元和五年(一六一九)の備後国知行帳には村名はみえない。「世羅郡誌」によると、寛永年間(一六二四―四四)分村し、寛永一五年地詰が実施され、村高一六一石六斗三升八合であった。「芸藩通志」は、畝数二九町五反五畝二四歩・高一七二石四斗八升一合、戸数四七・人口一九七、牛三九・馬一一、御建山に風呂ふろ山、御留山にかみ山、池は野佐志のさし池など四ヵ所、神社に八幡宮、廃寺に深谷ふかだに寺を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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