竹崎季長(読み)タケザキスエナガ

デジタル大辞泉 「竹崎季長」の意味・読み・例文・類語

たけざき‐すえなが〔‐すゑなが〕【竹崎季長】

鎌倉後期の武将肥後の人。元寇げんこうで奮戦、肥後の海東四郡を所領とした。「蒙古襲来絵詞」は自分武功を記念するために描かせたものという。生没年未詳。

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精選版 日本国語大辞典 「竹崎季長」の意味・読み・例文・類語

たけざき‐すえなが【竹崎季長】

鎌倉後期の武将。肥後国熊本県)の人。文永・弘安二度の元軍の来襲(元寇(げんこう))に際して戦功をあげた。その合戦や鎌倉での恩賞請求の様子が「蒙古襲来絵詞」二巻に描かれている。法名法喜。寛元四年(一二四六)生。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹崎季長」の意味・わかりやすい解説

竹崎季長
たけざきすえなが
(1246―?)

鎌倉後期の御家人(ごけにん)。五郎兵衛尉(じょう)と称す。肥後(ひご)国豊福庄(とよふくのしょう)竹崎を本貫とし、海東(かいとう)郷を領した。阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)家の庶流とする説と、菊池氏の同族とする説とがある。1274年(文永11)元(げん)軍が博多(はかた)湾に襲来した際、少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮下で奮戦、戦功をあげた。翌年鎌倉に赴き、恩賞として海東郷地頭(じとう)職を得た。1281年(弘安4)元軍がふたたび博多湾に襲来した際にも敵将の首級をあげた。この活躍は『蒙古襲来絵詞(えことば)』に詳述されている。季長は1293年(正応6)の「置文(おきぶみ)」で海東郷の支配について記している。没年は不明。

[下川晃義]

『中村一紀『蒙古襲来の絵巻・竹崎季長』(『新 熊本の歴史3』所収・1979・熊本日日新聞社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「竹崎季長」の意味・わかりやすい解説

竹崎季長 (たけざきすえなが)
生没年:1246(寛元4)-?

鎌倉後期の武将。肥後国御家人。本領は肥後国豊福荘竹崎。文永の役では,少弐景資の下で戦功を立て,恩賞要求のため鎌倉に赴く。続いて弘安の役でも活躍。両役における戦功を描いた《蒙古襲来絵詞》は著名。これを肥後国二宮甲佐社にささげ,子孫へ伝えようとした。戦功として同社領海東郷の地頭職を得た。そこでの領主支配の様相は,《塔福寺文書》などによってわかる。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「竹崎季長」の解説

竹崎季長

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:寛元4(1246)
鎌倉後期の武士。『蒙古襲来絵詞』の主人公で作成の依頼者。肥後国(熊本県)の竹崎郷の領主として文永の役(1274)に従軍した。はやる季長は止めるのも聞かず先駆けの功を果たしたが,危うく蒙古軍の手に掛かるところを命拾いする。恩賞を求めて鎌倉に上り奉行の安達泰盛に直訴した結果,肥後国海東郷を獲得した。泰盛は季長を「奇異の強者」と述べたという。その後弘安の役(1281)でも菊池武房らと共に合戦に加わり,敵船に乗り込んでの活躍をして分捕りの功をあげる。『蒙古襲来絵詞』は季長の戦いぶりと恩賞を求めた様を描いたもので,恩賞のために力を尽くしてくれた安達泰盛を記念して作成されたという。<参考文献>石井進『鎌倉武士の実像』

(五味文彦)

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百科事典マイペディア 「竹崎季長」の意味・わかりやすい解説

竹崎季長【たけざきすえなが】

鎌倉後期の武士。肥後(ひご)国御家人。2度の蒙古来襲に戦功を立て,鎌倉に恩賞要求に赴いて肥後甲佐(こうさ)神社領海東(かいとう)郷(現熊本県宇城市小川町)地頭職を得た。《蒙古襲来絵詞》は,自身の武勲を後世に伝えるため作成したものという。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「竹崎季長」の解説

竹崎季長
たけざきすえなが

1246~?

鎌倉後期の武士。肥後国の住人。菊池氏一族とする説が有力。本領の益城郡竹崎(現,熊本県宇城市)を失っていた季長は,1274年(文永11)文永の役の際に先駆けの功をあげ,翌年鎌倉に赴き,御恩奉行安達泰盛に直訴して益城郡海東郷(現,熊本県宇城市)の地頭職を得た。81年(弘安4)弘安の役でも博多湾防衛戦や肥前国鷹島海戦で活躍。93年(永仁元)制定の置文によれば,郷社を利用した海東郷支配を展開した。安達泰盛や,地頭職拝領を託宣した肥後国二宮の甲佐大明神の恩に報いるため,「蒙古襲来絵詞」を作成。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹崎季長」の意味・わかりやすい解説

竹崎季長
たけざきすえなが

鎌倉時代後期の御家人。文永 11 (1274) 年の蒙古襲来に際して奮戦し,恩賞として肥後国海東郡に所領を得た。また弘安4 (81) 年の再度の襲来においても活躍した。この両役における季長の戦功は『蒙古襲来絵巻』に詳しく記されている。 (→元寇 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「竹崎季長」の解説

竹崎季長 たけざき-すえなが

1246-? 鎌倉時代の武士。
寛元4年生まれ。肥後(熊本県)の御家人。文永・弘安(こうあん)の役でたてたみずからの戦功を子孫につたえるために「蒙古襲来絵詞(えことば)(竹崎季長絵詞)」をえがかせた。通称は五郎兵衛尉。

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旺文社日本史事典 三訂版 「竹崎季長」の解説

竹崎季長
たけざきすえなが

生没年不詳
鎌倉中期の武将
肥後国(熊本県)の御家人。元寇に際し奮戦し,特に弘安の役で今津長浜などで防戦,進んで敵船に乗り移り敵将を倒した。『蒙古襲来絵巻』は季長が描かせたものという。

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世界大百科事典(旧版)内の竹崎季長の言及

【肥後国】より

…多くの肥後の武士がこれに参戦した。この合戦に浮沈をかけ首尾よく恩賞(海東郷(現,下益城郡小川町)地頭職)を得て,《蒙古襲来絵詞》を制作させた竹崎季長などは別として,肥後の武士にとって異国警固(生松原の防塁築造と警備)の負担は重く恩賞は乏しく,貨幣経済の発達のもとに困窮を強いられた。これに対し,ひとり北条氏の権力のみが肥大化していった。…

【松橋[町]】より

…宇賀岳古墳は装飾古墳として知られる。元寇で戦功をあげたと伝えられる竹崎季長(すえなが)はこの地方を所領した御家人で,その城跡がある。【松橋 公治】。…

【蒙古襲来絵詞】より

…肥後国の御家人竹崎季長(たけざきすえなが)がモンゴル襲来の際の自分の活躍をかかせた絵詞。《竹崎季長絵詞》ともいう。…

※「竹崎季長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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