立憲政党(読み)りっけんせいとう

改訂新版 世界大百科事典 「立憲政党」の意味・わかりやすい解説

立憲政党 (りっけんせいとう)

近畿地方を中心に組織された自由民権期の政党。〈自由党の別働隊〉と目された。1881年9月,板垣退助来阪を機に結成された近畿自由党がその前身。同年11月,中央の自由党(10月結成)とは別個の政党として結成され,総理には当初板垣を迎えようとしたが実現せず,自由党副総理の中島信行が兼任した。82年2月,その組織を発表し,《大阪日報》を買収して機関紙《日本立憲政党新聞》(主筆古沢滋)を創刊した。中心メンバーは古沢滋,小室信介,小島忠里,永田一二ら関西の民権家と,東京から来た嚶鳴社員河津祐之,草間時福。党員数は82年10月,大阪,京都,兵庫,福井などの各府県下で641人を擁し,翌年3月までに118人が増加している。近畿地方を中心に遊説活動を展開したが,集会条例改正追加(1882年6月)以後強まる政府の圧力のもとで,83年3月,解党を決議した。自由党解党(1884年10月)にいたる政党解党現象の先駆をなす。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「立憲政党」の意味・わかりやすい解説

立憲政党
りっけんせいとう

自由民権派の政党。1881年(明治14)10月25日、小島忠里(たださと)、古沢滋(ふるさわしげる)によって結成され、中島信行(のぶゆき)を総理とした。前身は81年9月に結成された近畿自由党であり、自由党(総理板垣退助(たいすけ))の別働隊である。『日本立憲政党新聞』を機関紙として自由民権思想と運動の発展に努め、82年10月には大阪、京都、兵庫、福井諸県を中心に641名の党員を組織するに至った。植木枝盛(えもり)の起草した「東洋大日本国憲按(けんあん)」は、同党の私擬憲法ともいわれている。政府の弾圧が厳しくなり、集会条例などの拘束から逃れるため、83年3月15日に解党した。自由党系結社では解党は早期に属するが、近畿各地ではその後も運動は続けられた。

後藤 靖]

『後藤靖著『天皇制形成期の民衆闘争』(1981・青木書店)』

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