自由党(1881年結成)(読み)じゆうとう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

自由党(1881年結成)
じゆうとう

明治時代前期、自由民権運動の指導部として結成された日本史上最初の全国政党。1880年(明治13)空前高揚をみせた国会開設請願運動に直面した政府は、請願書の受理拒否と、集会条例による弾圧体制の強化をもって臨んだ。これに対して、同年11月の国会期成同盟第2回大会では、政党を結成して人民団結を図り、勢力を強化しようとする動きがおこった。しかし、賛成多数を得るには至らず、12月15日、植木枝盛(えもり)・河野広中(こうのひろなか)らの有志が「自由党」を結成したにとどまった。今日これは自由党準備会とよばれている。以後、各地方で政党結成への気運は盛り上がり、開拓使官有物払下げ事件をめぐって世論が沸騰していた翌81年10月、国会期成同盟第3回大会に集まった全国の代表は、自由党の結成を決定。「明治十四年の政変」後の同月29日、総理板垣退助(たいすけ)、副総理中島信行(のぶゆき)以下の本部役員を選出し、盟約3章と規則15章を決定して正式に発足した。結党は立志社系の土佐派の先走り的側面をもち、これによって嚶鳴(おうめい)社や九州の活動家が脱落していったともいわれる。自由の拡充、権利の確保、幸福の増進、社会の改良を目的に掲げ、翌年4月結成の立憲改進党に比して急進的であった。党員数は結党時101人、84年5月2224人。遊説活動を展開して組織の拡張を図り、82年6月には機関紙『自由新聞』を創刊した。政府は82年後半、集会条例の改正追加、請願規則の制定、福島事件などにより抑圧、規制、弾圧を強化。11月には党首板垣が政府の懐柔策にのってヨーロッパ視察に出発した。党首脳部は、これに反対した馬場辰猪(ばばたつい)ら国友会(こくゆうかい)グループを指導部から追放し、また、洋行を批判した改進党に対しては、同党と三菱(みつびし)が癒着していると非難して、対決姿勢を強めた。ついで、翌年4月の大会以後展開した改進党撲滅活動によって、民権陣営は分裂する。一方、弾圧の強化と松方デフレ政策のもとで、関東・東海地方の党員のなかには、没落した貧農と結んで挙兵しようとする急進的傾向が強まり、84年5月群馬事件、9月加波山(かばさん)事件が起こった。前年6月の板垣帰国後、早くも解党論を唱え始めていた党首脳部は、これら党員の動きを統制しきれず、84年10月29日、解党を決定するに至った。同党にはさまざまな限界があったとはいえ、諸階級・諸階層を提携させ、また、地域の運動を全国的運動へと発展させる指導組織が誕生したことの意義は大きい。

[大日方純夫]

『板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂『自由党史』上中下(岩波文庫)』『内藤正中著『自由民権運動の研究』(1964・青木書店)』『後藤靖著『自由民権運動の展開』(1966・有斐閣)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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