立岩村(読み)たていわむら

日本歴史地名大系 「立岩村」の解説

立岩村
たていわむら

[現在地名]岸本町立岩

吉定よしさだ(細見村)の南に位置し、南は小野おの村、西は小町こまち村。かつて集落は日野川右岸にあって、同川や支流清山せいやま川の洪水にたびたび襲われたといわれる。ところが元禄一五年(一七〇二)の洪水で全戸が流失したため、日野川対岸の小町村小町坂から小野村分の山間にかけての地に移転、耕作には川船などを利用して田地のある対岸に渡ったという。しかし、安政六年(一八五九)佐野さの川の開削に際して藩から立退きを命ぜられ、再び日野川右岸に集落を移し、明治二年(一八六九)頃までに全戸ようやく現在地に移転を完了したという(岸本町誌)

立岩村
たちいわむら

[現在地名]伊万里市山代町やましろちよう立岩

佐代さよ川下流域で大部分丘陵。伊万里湾沿岸には干拓地佐代搦さよがらみ黒藻くろも搦・しん搦の小字名がある。慶長絵図に「たちわ村 脇野ノ内」とある。黒藻搦は天明四年(一七八四)閏正月、久原くばら村の久左衛門が、「某去春山代郷立岩村黒藻搦築立被仰付(中略)早速取懸候処存外過分之銀入ニ(中略)漸六部通程成就仕候」(永尾家御用日記)といっているのでその頃の造成と思われるが、佐代搦・新搦についてはわからない。

立岩村
たていわむら

[現在地名]朝日村立岩

小瀬こせ村の東に続く飛騨川右岸の村。北のくらい山分水嶺の尾根から流れ出る水無みずなし谷・立岩谷が合流してつくる扇状地に集落を形成する。上流高台に枝村桑野くわのがあり、岩樔いわす山に屹立した数十丈の大岩から村名が生じた(朝日村誌)。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の阿多野あだの郷に村名がみえる。ほか五村とともに高付され高四七〇石余・物成高一四一石余。桑野は万石まんごく村などとともに高付される。元禄検地反歩帳の高九三石余、田三町四反余・畑九町三反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割七分七厘、家数二八、うち百姓二五・門屋二・寺一。寛政一二年(一八〇〇)には田四三石余・畑七〇石余、うち新田高二〇石余、反別田四町二反余・畑一四町五反余、家数三〇、僧二、人数二〇九、宝蓮ほうれん(村明細帳)

立岩村
たていわむら

[現在地名]鳴門市撫養町立岩むやちようたていわ

林崎はやさき浦の南にあり、東はさと浦。境を撫養川が北流する。慶長期(一五九六―一六一五)林崎浦のうちに塩浜として築立てられ分村した(鳴門辺集)正保国絵図には「林崎之内立岩村」とあり、寛文四年(一六六四)の在々古田出目并新田高帳では林崎浦の枝郷となっている。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一二五石余。享保九年(一七二四)検地帳(鳴門市史)では田高一〇八石余・反別七町二反余、畠高九五石余・反別九町五反余で計高二〇四石余。

立岩村
たていわむら

[現在地名]飯塚市立岩・新飯塚しんいいづか新立岩しんたていわ芳雄町よしおまち

嘉麻かま郡に所属。遠賀おんが川と穂波ほなみ川の合流点付近右岸に位置し、南は遠賀川を挟んで穂波郡薦田こもだ村。枝村に柏森かやのもり村がある(天保郷帳など)。小早川時代の指出前之帳では嘉麻郡立岩村の田五一町三反余(分米五四三石余)・畠二二町九反(分大豆一〇六石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千五三五石余、うち大豆四〇二石余(慶長石高帳)。元禄三年(一六九〇)の直方御分地村高帳(阿部文書)に直方藩領としてみえる立岩村のうち一〇三石余は柏森村にあたる。同五年には高一千四五七石余、人数四四一(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。

立岩村
たついわむら

[現在地名]川場村立岩

生品なましな村の北東に位置し、東は下古語父しもここぶ(現白沢村)。下古語父村の東、現川場村と現白沢しらさわ村の境に雨乞あまごい山がある。寛文期(一六六一―七三)には生品村に含まれていたと思われる。天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)に「生品村之内」として村名がみえ、名主がいた。宝永元年(一七〇四)の沼田領村々石高書上によると高一七三石余、反別は田一〇町六反余・畑一七町七反余。元禄七年(一六九四)の伐木運上改口留番人請書(星野文書)によると、奥利根地方から沼田城下などへ運ばれる材木の口留番が当村にも置かれている。

立岩村
たていわむら

[現在地名]下山村立岩

ともえ川に沿い、南北に細長い村。東は大林おおばやし村、南は大桑おおくわ村・神殿かんどの村、西は黒岩くろいわ村・栃立とちだち村・平沢ひらさわ村、北は現足助あすけ町に接する。集落は南部の小起伏面上山麓に点在。県道東大見―岡崎線と県道平瀬―善夫線が通じる。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。慶安四年(一六五一)大島おおしま(現足助町)に陣屋を置く旗本石川貞当の知行地となり明治に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報