立山寺跡・岩峅寺跡(読み)たてやまじあと・いわくらじあと

日本歴史地名大系 「立山寺跡・岩峅寺跡」の解説

立山寺跡・岩峅寺跡
たてやまじあと・いわくらじあと

[現在地名]立山町岩峅寺

常願寺川扇状地の扇頂部右岸段丘上に位置し、富山平野を眺望する。当寺はもと現在地の南東段丘上の天林てんばやしに造立されたと伝えられ、のち移築されたと考えられている。現在の雄山おやま神社前立まえたて社壇(遥拝所)のことで、中世までの一般的な呼称は立山寺であった。近世以降もなお呼習わされることもあったが、岩峅寺(岩倉寺)が通称となっていく。越中観音巡礼三四番札所(稿本越の下草)芦峅寺の中宮あしくらじのちゆうぐう(芦峅寺)、雄山山頂のみね本社とともに三位一体の形態をとり、立山信仰の拠点であった。当寺はいわば里宮としての役割を担っていたものであろう。「師資相承」は昌泰二年(八九九)没の天台宗近江園城おんじよう寺長吏康済について、「越中立山建立」と記載している。この立山とは立山寺のこととも考えられるが不詳。また鎌倉時代増補の「伊呂波字類抄」十巻本の巻四に「自大河北三所(中略)下岩峅寺・今泉」とある。至徳元年(一三八四)一一月三日の官宣旨(鹿王院文書)に立山寺とみえ、寺領の寺田てらだ・岩峅が京都鹿王ろくおう(現京都市右京区)領となった。さらに岩峅寺の常願寺川対岸にあたる現大山おおやま文珠寺の宝寿もんじゆじのほうじゆ院に伝わる棟札は当寺にかかわるものとみられ、立山寺院主明舜が応仁元年(一四六七)に社頭(本殿)を復興したこと、それ以前の造立が承久二年(一二二〇)であったとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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