日本大百科全書(ニッポニカ) 「大航海時代」の意味・わかりやすい解説
大航海時代
だいこうかいじだい
西ヨーロッパの15世紀初めから17世紀初めにかけて、イベリア半島の2国(ポルトガル、スペイン)をその先導者とし、それまでの地中海世界から目を地球全域に向け、主として大洋航海によって、それまで伝説的・空想的領域にあった世界の各地が、探検航海により次々に現実に確認されていった時代をいう。その内容が、地球全域にわたって繰り広げられたヨーロッパ人による地理上の「発見」が主体であったために、この時代を「地理上の発見時代」ともいうが、そこにはあくまで従来のヨーロッパ中心の立場からみた「発見」という史観(ヨーロッパ史観)が貫かれている。したがって、それが、その後に続くヨーロッパ近代諸国家による非ヨーロッパ地域の植民地化という事態を結果することにもなったのである。
[飯塚一郎]
時代的背景
イベリア半島にはすでに711年、アラブ人、モーロ人などのイスラム教徒が侵入し、以来780年間に及ぶイスラム支配体制を確立し、ヨーロッパではここだけにイスラム文化の華が咲いた。そのなかでもっとも特徴的なことの一つは、アラビア語に翻訳されたギリシア学がこの地でラテン語に再訳されてキリスト教世界に浸透していったことである。これらのなかには、紀元前5世紀にピタゴラス学派の主張した世界球形説、プラトンなどの主張したアトランティスの存在などが知られていた。また、7世紀セビーリャの聖イシドルスの地球球形説、前2世紀のアレクサンドリアの図書館長エラトステネスの投影図法による最初の世界図、新大陸が予言されている前1世紀のストラボン『地理学』の世界図、さらにポンポニウス・メラPomponius Mela(1世紀)を経て、プトレマイオス・クラウディオスPtolemaios Klaudios(2世紀)の『地理学』、また教父ラクタンティウスLucius Caecilius Firmianus Lactantius、ナジアンゾスのグレゴリオスGregorios ho Nazianzos、アウグスティヌスなどは否定したが、コンシュのギヨームGuillaume de Conches(12世紀)、アルベルトゥス・マグヌス(13世紀)、アバノのピエトロPietro d'Abano(14世紀)、ボローニャ大学のチェコ・ダスコリ(1327)などの対蹠(たいせき)地存在説が知られていた。さらにヤコブス・アンゲリクスのプトレマイオス『地理学』のラテン語訳(1409)、プトレマイオスの地図のイタリア版印刷(1477)、またピエール・ダイイPierre d'Aillyの『イマゴ・ムンディ』(世界の姿)が1410年に書かれ、これはそれまでのギリシア、ローマ、アラビアの諸学者の地球球形説を概説していた。これらの理論的研究と同時に、十字軍やレコンキスタ(国土回復戦争)のなかで、マルコ・ポーロ『旅行記』の東洋に関する記述への関心、あるいはアフリカの奥地にあると信じられていた中世的伝説のキリスト教を信ずるというプレステ・ジョアン(プレスター・ジョン)の国と連絡をつけるという目的、イスラム圏に入ってくる絹、陶器、香料、その他の東洋物産を、イスラム商人の手を経ずに直接手に入れること、あるいは直接東洋に達する道を発見することなどを目的とした現実の探検航海が試みられるようになった。
[飯塚一郎]
ポルトガルの探検
ポルトガル王ジョアン1世(在位1385~1433)と王妃フィリーパ(イギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘)の3人の王子(ドゥアルテ、ペドロ、エンリケ)が、騎士になるための条件の一つとして、1415年、ヒブラルタール(ジブラルタル)の対岸、北西アフリカのイスラムの拠点セウタを攻略した。第3王子エンリケはその後も同地にとどまり、アフリカ西海岸や奥地の情報を得て帰国した。そして、一つにはプレスター・ジョンの国を捜し当てること、もう一つは塩、象牙(ぞうげ)、金、奴隷などを主体とするイスラム貿易圏をキリスト教徒の手に収めることなどの目的で、国をあげて探検航海を推進した。カナリア諸島、マデイラ諸島、アゾレス諸島への航海、1434年エアネスのボアドール岬の回航、1444年セネガル川、翌年ベルデ岬の回航、さらにエンリケ王子の没後、象牙海岸、黄金海岸などの探検、82年にはやがて奴隷貿易の中心地となるエルミナ(現在のガーナ)の城砦(じょうさい)構築(クリストバル・コロンも参加)が行われた。続いてディオゴ・カウンDiogo Cam (Cão)はコンゴ、アンゴラを発見、さらにアフリカ西岸の南進を続けた。
陸路は1487年以降、王命を受けてペドロ・デ・クビリャンPedro de Covilhãoがアデン経由でインド半島西岸の香料取引地に至り、ペルシア湾岸オルムスから紅海、アフリカ東岸をザンベジ川河口付近まで南下した。
そしてついに、ポルトガルの最大の功績の一つとなった探検が行われる。バルトロメウ・ディアスが1487年リズボア(リスボン)を出港、翌年初めにアフリカ最南端喜望峰を東へ回航、東海岸を若干北上して1488年12月帰国した。続いてバスコ・ダ・ガマが1497年7月8日リズボアを出港、ベルデ岬諸島を経て喜望峰を回航、アフリカ東岸マリンディを経て1498年5月20日、インド西岸マラバル海岸のコジコーデ(カリカット)に到着した。ここに宿願のインド航路発見が実現し、以後ポルトガルはこの方面に大船団を送ることになる。
[飯塚一郎]
アメリカ大陸の発見
一般にアメリカ大陸の発見者はクリストバル・コロン(コロンブス)とされているが、厳密にいえば、この地へ到達した最初のヨーロッパ人はかならずしもコロンではなかった。9世紀から10世紀にアイスランドからグリーンランドに達していたノルマン人の一隊がすでに北アメリカに至ったという説もあるし、そのころ彼らが残したという地図も発見されている。その後アゾレス諸島やカナリア諸島を再発見したポルトガル人が、大西洋上の伝説の地アンティーラ、「七つの都市の島」、ブラジル島などを探し求めてグリーンランド、北アメリカに達したという説もある。しかし、これらは十分な記録もなく、その後忘れ去られる結果になり、世界史のなかであとに重要な意義をもたなかった。そのような意味から、近代世界史のうえに記録されるべき確証をもったクリストバル・コロンの航海が、この時期(大航海時代)の重要なできごとの一つとしての意義をもつことになる。しかし、コロンは死ぬまで発見地を東洋(インディアス)の一部と考えて、そこの先住民をインディオとよび、近くに黄金の島ジパング(日本)があるのではないかと探し求めたようであるから、「新大陸」を発見したという意識はなかったのかもしれない。
いずれにせよ、コロンが西航の「計画」を最初に請願したポルトガルは、アフリカ西岸を南下してこれを東に迂回(うかい)して東洋に達する航路の発見が間近であったためにこれを否決、コロンはスペイン国王イサベルに請願することになる。しかし、スペインのこの方面への探検航海は、国内でのレコンキスタが最終段階を迎えていたために、これに忙殺されてポルトガルに遅れ、コロンの「計画」が許可されるのは、グラナダ滅亡の直後、1492年4月であった。
コロンの航海は前後4回実施される。第1回は1492年8月3日朝、南スペインのパロスを3隻で出港、カナリア諸島を経て、10月12日未明バハマ諸島の一島を認め、これをサン・サルバドルと命名、さらにキューバ、ハイチ、小アンティル諸島などを確認して、翌年3月パロス港に帰着した。すでに1481年の教皇シクトス4世の教書で、ギニアをはじめアフリカ西岸の発見地がポルトガルの領有として認められていたし、それ以前1479年にアルカソバス条約で、スペインはポルトガル人の発見地とその領有に干渉しないことが決められていた。そこでスペインは、コロンの進言によって早速その発見地の領有を教皇アレクサンデル6世に出願した。教皇は1493年四つの教書を出して、スペインの領有権を認めるとともに、アゾレス諸島およびカーボベルデ諸島の西100レグア(約483キロメートル)の洋上で南北を走る経線を境として、その西側に属する海域の陸地をスペイン領、東側をポルトガル領とすることを決めた。しかし、アゾレス諸島とカーボベルデ諸島では、それぞれ西端の経度で6度の差があり、それぞれから西へ測る100レグアはきわめて不正確であったため、この境界を両国の直接交渉にまかせた。結局、1494年6月7日トルデシリャス条約で、教皇の決めた線をさらに270レグア(約1304キロメートル)西に移動して370レグア(約1786キロメートル)の洋上の南北経線を境界線とすることとした。そのため南アメリカの東側に突出した部分(ブラジル)がポルトガルの領有となった。
コロンが第1回航海から帰国すると、インディアス発見の「誤」報は全ヨーロッパに伝わり、ただちに第2回目の航海が計画され、1493年9月カディスを出港、前回よりやや南に進路をとり、小アンティル諸島、ハイチなどを探検、1496年帰国した。その後第3回(1498~1500)、第4回(1502~04)と航海を重ねたが、さらに西航する航路がみつからないまま、コロンの立場はしだいに悪くなっていった。
コロンが第3回航海に出発するころ(1498)には、バスコ・ダ・ガマはアフリカ南端を回航してインドに到達していた。また、ポルトガル王マヌエルが、ブラジルの発見者とされるペドロ・アルバレス・デ・カブラルの報告を受けて派遣した首席パイロットのアメリゴ・ベスプッチは、1501年5月リズボアを出発、カブラルが前年5月に到着した南アメリカの東海岸サンタ・クルスを経てリオ・デ・ラ・プラタまで達した。さらに大西洋上を南緯46度付近まで南下、南極圏の荒天に阻まれて北東に転じ、アフリカ西岸シエラレオネに引き返し、1502年9月リズボアに帰港した。彼はこの航海で、コロンの到達した大西洋の西の一帯がインディアスではなく、ヨーロッパ、アジア、アフリカに次ぐ「第四の大陸」であることにほぼ間違いないことを確信した。彼がリズボアからロレンツォ・ピエロ・フランチェスコ・デ・メディチにあてた書簡(1503年4月)には、この地が「新大陸」Mundus Novusであると記されている。したがって、この新大陸がアメリゴ・ベスプッチの名をとって、ラテン名「アメリクス」と命名されたのは、コロンがこの世を去った翌1507年のことであった。
[飯塚一郎]
世界周航
コロン(コロンブス)の発見地が「新大陸」であるとすると、これをさらに西へ回航して東洋に至る航路があるのではないかと考えることは当然である。早くも1513年にはスペインのバスコ・ヌニェス・デ・バルボアが太平洋の存在を確認。さらにポルトガル人フェルナゥン・ダ・マガリャンイス(マジェラン)はすでにポルトガルのマラッカ遠征で活躍していたが(1508~09)、次のインド総督アルブケルケと対立し帰国していた。その後友人フランシスコ・セラウンのモルッカ諸島の模様を知らせた手紙や、親友で宇宙誌学者ルイ・フェレイロの意見などから、ガマの発見した従来のアフリカ南端を迂回するポルトガルのインド航路によらずに、南アメリカを西へ回航してモルッカ諸島へ達する計画をたてた。ポルトガル国王マヌエルに請願したが、いれられず、セビーリャに移り、スペイン国王カルロス1世の許可を得た。彼は総指揮官に任命され、5隻の船隊に265人を乗せ、1519年9月20日サン・ルーカルを出帆した。南アメリカ南端にマゼラン海峡を発見、これを抜けて太平洋に出ることに成功、4か月の苦難のすえようやくサン・ラザロ(フィリピン)群島にたどり着いた。彼自身はセブ島東のマクタン島で先住民との戦闘中1521年4月に戦死したが、18人の乗組員が翌1522年9月サン・ルーカルに帰港し、ついに世界一周航海に成功した。
[飯塚一郎]
その他の探検航海
コロン(コロンブス)が第1回航海によってインディアスの一部に到達したという知らせがヨーロッパに伝わると、イングランド国王ヘンリー7世の援助のもとに、ジェノバ生まれのジョバンニ・カボート(カボット)は1497年5月ブリストルを出港した。彼は北航して西航し、ケープ・ブレトン(あるいはラブラドル)島を発見、さらにニューファンドランドを探検し、同年8月ブリストルに帰港した。当時ポルトガルによるアフリカ南端を東へ回航する東洋への航路、スペインによる南アメリカ南端を西へ回航してモルッカ諸島に至る航路の探索に続いて、さらに北西航路あるいは北東航路による東洋への到達が可能ではないかと考えられ、この方面への探検航海が、大航海時代に出遅れたイギリス、フランス、オランダなどによって試みられた。
父ジョバンニ・カボートの航海に同行したその子セバスティアーノは、1503年には単独で北方航路の探検に出港した。そのほか、イギリスでは、チャンセラーRichard Chanceller指揮下のウィロビーSir Hugh Willoughbyの航海、ジャックマンCharles Jackman、フロビッシャーSir Martin Frobisherなどの航海があった。フランスもカルチエJacques Cartierによりセント・ローレンス川を発見、後のフランスのカナダ植民の基礎を築いた。しかし、この方面への航海は、いずれも東洋への航路を発見するに至らなかった。だが北アメリカの北東海岸、グリーンランド、ニューファンドランド、ハドソン湾一帯の地理がヨーロッパ人に明らかになっていった。
[飯塚一郎]
大航海時代の世界史的意義
コロン(コロンブス)の航海以後しばらくは、スペイン人の新大陸内部への関心はそれほど強いものではなく、むしろさらに西航する航路の発見に力が注がれたようである。バルボアはパナマ地峡を横断して太平洋岸に達したが、さらに南進する計画は挫折(ざせつ)した。この遺志を継いだフランシスコ・ピサロがインカ帝国を発見、これを征服し、それ以前すでにエルナン・コルテスがメキシコ中央部のアステカ王国を征服しており、スペインのこの方面での植民地収奪政策は進捗(しんちょく)した。このようにして近代植民地体制の確立は、世界史上に一つの重要な転機をもたらした。さらに、アフリカ南端を回航して東洋に達したポルトガルの築く世界貿易体制と、新大陸からさらに太平洋を西航してフィリピンに達したスペインの植民地体制との衝突は、モルッカ諸島のあたりで激しくなった。トルデシリャス条約は大西洋上の一線で両国の領有権を東西に分けただけであり、その裏側での両国の抗争は予測されなかったのであろうか。いずれにせよ、まずイベリアの2国による世界支配の体制の確立は、それに続くイギリス、オランダ、フランス、その他のヨーロッパ諸国が、絶対王政の形成を背景に、世界の富の収奪と権力の拡張を求めて、地球上のあらゆる地域を侵略していく糸口になる。この時代の経済的特徴の一つは、それまでのイタリア商人やイスラム商人による地中海貿易体制が崩壊して、新大陸からヨーロッパに送られる貴金属との交換によるヨーロッパ工業品の輸出、あるいは香料をはじめとする東洋物産の直接導入、アフリカ奴隷貿易と砂糖栽培が開始されたことであり、これらのことは宗教的には非キリスト教世界に対するキリスト教化と同時に進められた。そして近代資本主義の形成をヨーロッパに実現させる資本の原始的蓄積を促進させることになった。
[飯塚一郎]
『会田由他監修『大航海時代叢書』(第Ⅰ期11巻・別巻1・1965~70、第Ⅱ期全25巻・1979~92・岩波書店)』▽『山中謙二著『地理発見時代史』(1969・吉川弘文館)』