福居村(読み)ふくいむら

日本歴史地名大系 「福居村」の解説

福居村
ふくいむら

[現在地名]姫路市別所町別所べつしよちようべつしよ

佐土さづち村の東に位置し、あま川の中流域に立地する。山陽道が東西に通る。近世初期には別所村と称した。増補播陽里翁説(智恵袋)に「福居村ハ池田家御代の後村名悪敷ゆへ改申よし、本多家御代か」と記される。「増訂印南郡誌」によると、姫路藩主本多氏時代に別所とは所を別つと読み、忌名であるので嘉字をとり福居村に改めたという。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に別所村とみえ、当村の六九一石などが木下家定に宛行われている。慶長国絵図には別所とある。正保郷帳および「寛文朱印留」でも別所村となっているが、延宝七年(一六七九)の免割目録(原家文書)には福居村と記される。

福居村
ふくいむら

[現在地名]出石町福居

しま村の北西にあり、出石城下から豊岡城下へ向かう道(豊岡街道)が通る。集落は出石川の右岸箱根はこね(五四メートル)の周辺に散在。古くは権現ごんげん村といったが、明暦二年(一六五六)に福居村と改めたという(「兵庫県神社誌」など)。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では権現村とみえ、同国絵図では高四九四石余。元禄郷帳に「福居村」とある。出石封内明細帳では拝領高四四四石余・改出高五〇石余、これらの内訳は屋敷六石余・麻畑五石余・田方三八九石余・畑方九三石余、ほかに古新発高一一石余、家数五四・人数二五〇。小物成として茶代米一石八斗余・山手米一石余・川運上銀七匁余、桑代の真綿一貫六四四匁ほかを納めていた。

福居村
ふくいむら

[現在地名]富山市福居

神通川右岸に位置し、富山藩領。万治三年(一六六〇)以降に西の押上おしあげ村から分村したといわれるが、元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳に村名はみえない。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に福井村とみえ、高三七七石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高三七七石余・定免三ツ二歩、新田高四一石余・平均免一ツ三歩三厘余、小物成は塩野役一〇七匁・鮭川役三四匁余・鱒川役三匁余・鮎川役一二匁余・柳差一匁余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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