神徳院跡(読み)しんとくいんあと

日本歴史地名大系 「神徳院跡」の解説

神徳院跡
しんとくいんあと

[現在地名]高原町蒲牟田

狭野さの神社の脇にあった同社の別当寺門前に狭野(佐野)の集落がある。霧島山仏華林寺神徳院といい、天台宗穴太派。本尊阿弥陀如来。狭野寺とも称された。創建開山は慶胤、再興開山は性空、中興開山は宥淳とされる。創建については、神武天皇の創建説や慶胤が欽明天皇のときに狭野大権現と当院を建立したとの説もあり、また一説には敏達天皇の時代に創建されたとも伝える。康保三年(九六六)霧島山に入山した性空により建立された六社・六寺の一。昔日は三六〇支坊を有していた。文暦元年(一二三四)一二月二八日の霧島噴火で寺社ともに焼失し、東霧島つまきりしま勅詔院(現高崎町)に移った。その後、天文一二年(一五四三)まで住持は神徳院・勅詔院の両寺兼職で、同年島津貴久の命により神徳院主舜恵は高原の地(現西麓鎮守神社社地)に行廟を営み狭野権現の神輿を勅詔院より移した。慶長一五年(一六一〇)島津家久は狭野の霊跡の荒廃を危惧し、狭野の旧地に祠廟・堂宇を復興することを神徳院主宥淳に命じた。同一七年、狭野の神体が高原から現在地に移されたという(三国名勝図会)

性空開基以来天台別院として本寺をもっていなかったが、寛文五年(一六六五)将軍徳川家綱の命により諸山の本末を定め、諸寺の宗派を明らかにすることが決められたため、同年八月東叡山御門跡輪王寺宮一品親王尊敬の直末となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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