神崎庄(読み)こうざきのしよう

日本歴史地名大系 「神崎庄」の解説

神崎庄
こうざきのしよう

中世、香取海に突出した岬島状の神崎森を中心とする下総台地から利根川河畔域を庄域とする。本家は摂関家(近衛家)。当庄の前身は、応保二年(一一六二)六月三日の大禰宜実房譲状(香取文書)によって香取社大禰宜実房から次男知房に譲られた神崎社宮司に付属した神崎社領で、長寛二年(一一六四)六月、大禰宜真房は関白左大臣近衛基実家政所下文(同文書)を得て「大戸神崎并小野織服村」の知行を認められた。その背景には香取大宮司職をめぐる大禰宜大中臣氏と鹿島大宮司中臣氏間の紛争があり、大禰宜家が近衛家への接近を図り、神崎社領を大戸おおと(現佐原市)社領ともども近衛家に寄進して立庄されたものとみられる。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の関東知行国乃貢未済庄々注文に殿下御領として大戸・神崎の記載がみえる。立庄されたものの、建久年間(一一九〇―九九)の香取社の式年遷宮の際、同四年四月六日の官宣旨(案、香取文書)によって当庄は大戸庄ともども庄号を停止され、正殿造替時に神体を仮安置する殿造営および作料米二〇〇石の弁済を命じられた。建久年間の香取神宮遷宮用途注進状(同文書)には「依宣旨支配作料国中庄々」のなかに「大戸神崎二百石 半済了」とみえ、寛元元年(一二四三)一一月一一日には殿の造進所役を当庄千葉七郎跡および大戸庄国分小次郎跡が負担することになっている(「造宮所役注文写」同文書)

神崎庄
かんざきのしよう

郡の中南部やや東寄りに設置され、北は大田おおた(現芦田川)を隔てて大田庄、南は御調みつぎくい(現久井町)、西は重永しげなが庄に接する。北部は甲山こうざん盆地の一画を占め、南部は標高約七〇〇メートルの宇根うね山と、それに連なる山や谷で構成される。太政官祈願所領で、領家は文永(一二六四―七五)当時の長井氏から、のち紀州の高野山金剛三昧院内遍照院に移る。地頭は阿野氏。

荘名は年号は不明ながら壬生家文書の官中便補地由緒注文案にみえ、これによると、神崎庄は小槻隆職の開発功力によって立荘、安元二年(一一七六)の官宣旨で子々相伝知行が確認された。「門葉記」所収の、弘長三年(一二六三)の官御祈願所注文状には、祈祷料を進納する地の一つとして神崎庄があげられ、時の領家は長井判官代泰氏とある。

神崎庄
かんざきのしよう

古代の寒川郡かんざき(和名抄)に立庄された庄園で、現寒川町神前かんざきを遺称地とする。天福元年(一二三三)一二月一六日の南都興福寺別当実信に宛てた前関白家御教書案(興福寺旧蔵「勝軍比量事」紙背文書)に庄名がみえ、当庄は興福寺の三面僧坊の料所として前関白九条道家により、同月寄進・立庄されたとある。この寄進の事情を示す史料が同年一二月七日の前関白左大臣家政所下文(案、同文書)で、道家の政所は讃岐国の在庁官人に対し、国司庁宣に従って神崎郷を不輸の庄園となし、官物や大小国役を停止し、年貢を興福寺三面僧坊の供料に充てるよう命じている。「民経記」寛喜三年(一二三一)四月一四日条や「玉蘂」所引の葉室高嗣(のち定嗣)記の嘉禎三年(一二三七)四月一六日条によれば、当時の讃岐国司は道家の家司で政所別当の源兼教であり、かつ讃岐国は道家の知行国であった。

立庄後、神崎郷は中世を通じて史料上に表れない。また政所下文も神崎郷の立庄を命じただけで、その四至を記していないところをみると、当庄はもともと公領であった神崎郷をまるごと庄園化したものと考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報