碁所(読み)ゴドコロ

デジタル大辞泉 「碁所」の意味・読み・例文・類語

ご‐どころ【碁所】

江戸時代囲碁の最高権威者に与えられた称号本因坊・林・井上安井四家から選ばれ、碁界を支配した。また、この四家をいう。

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精選版 日本国語大辞典 「碁所」の意味・読み・例文・類語

ご‐どころ【碁所】

〘名〙 江戸時代に碁院四家(本因坊、井上、安井、林の家元)の上に立って碁界の総取締りに任ぜられた者の称号。正式な名人九段)にだけ許され、「官賜碁所(かんしごどころ)」の肩書を用いた。免状発行、御城碁差配などを取りしきり、止碁といって特別な場合以外は公式対局はしなかった。
※俳諧・天満千句(1676)七「とび石にしたる巖(いはほ)は春の色〈未学〉 ひがしより来てすはる碁所〈利方〉」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「碁所」の意味・わかりやすい解説

碁所
ごどころ

江戸幕府所属の碁方 (碁打衆) が出仕する碁の機関,ならびにその長をいう。延宝5 (1677) 年,4世本因坊道策が名人になった時点で創設され,道策は同6年4月 17日付で,その取締りに任じられた。したがって1世本因坊算砂,中村道碩,2世安井算知の3名は碁所的ではあるが碁所に関係のない名人である。道策以降,この地位についた者に3世井上因碩 (のちに井上家の世系書き換えにより4世とされる) ,5世本因坊道知,9世本因坊察元,12世本因坊丈和の4人がある。名人 (段位制定後は9段) は技量上の最高位,碁所は政治上の最高位である。名人は同時に碁所を許されるとはかぎらないが,碁所は名人でなければなれなかった。碁所空位のときにのみ,棋院四家は家元会議の承認を得たうえで免状を発行し,将軍裁量を仰いだ。しかし,在位中は一切の権限は碁所に属し,「官賜碁所」の肩書はなにものにも優先した。その地位をめぐる闘争が激しかったのはそのためである。

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百科事典マイペディア 「碁所」の意味・わかりやすい解説

碁所【ごどころ】

江戸時代,扶持を給して碁打の入段昇段御城碁運営などにあたらせた制度。江戸時代を通じて,本因坊,安井,井上,林の4家があり,また名人(九段)だけに許され4家の上に立って碁界の総取締に任じた者の称号としても用いられた。→将棋所
→関連項目本因坊本因坊算砂本因坊道策

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「碁所」の解説

碁所
ごどころ

江戸時代寺社奉行の管轄下におかれた碁打4家を統轄する役目。17世紀につくられ,当初は本因坊家の当主が就任し,その後は本因坊・井上・安井・林の4家の当主のうち最強者が名人になり,碁所の司(つかさ)になった。年1回江戸城で対局する御城碁(おしろご)に参画。名人を基準に全国の強豪の段位を定め免状の発行権をもち,囲碁の普及に大きく役立った。明治維新とともに消滅。

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世界大百科事典(旧版)内の碁所の言及

【大橋宗桂】より

…将棋が上手であったために織田信長,豊臣秀頼,徳川家康,徳川秀忠に遊興の奉仕として召し出され,本因坊算砂らと将棋を指して巧芸を披露した。江戸幕府成立後,将棋指衆として召し抱えられ,碁所より分岐した将棋所の司として初代名人になり,50石五人扶持の俸禄を与えられた。これは将棋が市井の遊芸から幕府公認の技芸として認められ,民間の将棋指しが幕臣に加えられたことを意味し,将棋史上画期的なできごとであった。…

【碁】より


[江戸時代の碁]
 1588年(天正16)秀吉は本因坊算砂(当時は日海)に20石10人扶持を給して〈碁の法度を申付〉けた。碁所(ごどころ)の開始とされる。しかし実際に碁所制度が確立するのは徳川幕府の基礎が固まり,家元制のもとに碁将棋衆に扶持を給して碁将棋を奨励する政策がとられるようになってからである。…

※「碁所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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