御城碁(読み)オシロゴ

デジタル大辞泉 「御城碁」の意味・読み・例文・類語

おしろ‐ご【御城碁】

江戸時代、寺社奉行管轄のもとに、年1回江戸城で行われた碁の御前試合

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精選版 日本国語大辞典 「御城碁」の意味・読み・例文・類語

おしろ‐ご【御城碁】

〘名〙 江戸幕府年中行事一つ。一一月一七日に碁職にある者が、将軍御前でその技を争うもの。対局者は勝負がつくまで帰宅を許されず、ここから「碁打ちは親の死に目にも会えない」ということばが生まれたという。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「御城碁」の意味・わかりやすい解説

御城碁
おしろご

江戸時代に将軍の前で年に1度定例的に行われた囲碁対局。幕府の碁の保護奨励策である。初期は棋院四家もなく,碁方 (碁打衆) も少なかったので,必ずしも毎年行われていたわけではない。次第に儀式化し,将軍が出座しない場合も出てきた。家元制度が確立し,跡目や一門弟子 (外家) が出仕するにいたって対局者,対局数もふえ,御城将棋も同時に行われるようになった。譜は正保1 (1644) 年または同2年から記録されている例が多いが,1951年に出版された『御城碁譜』には寛永年間 (24~44) の3局,さらにそれ以前のものが御前対局として収録されている。不統一だった対局日を享保年間 (1716~36) に 11月 17日と定めたが,多少の変更はあった。中期以降,対局が長くなったため,あらかじめ寺社奉行所などで下打ちをし,結果を伏せておいて御城 (主として黒書院) で並べる風習が生じた。そのかわりに御好み対局が行われるようになり,途中打掛けにし,寺社奉行所で打継ぐこともあった。文久1 (1861) 年を最後とし,同2年は下打ちのみであった。幕末世情不安のうちに自然消滅した。

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百科事典マイペディア 「御城碁」の意味・わかりやすい解説

御城碁【おしろご】

寛永年間に江戸幕府が始めた,高段棋士を集めての将軍御前対局。毎年1回年中行事として行われ,幕末まで続いた。なお同様に御城将棋が行われ,8代将軍吉宗の時に期日11月17日と定められた。
→関連項目碁所

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世界大百科事典(旧版)内の御城碁の言及

【碁】より

…しかし実際に碁所制度が確立するのは徳川幕府の基礎が固まり,家元制のもとに碁将棋衆に扶持を給して碁将棋を奨励する政策がとられるようになってからである。碁所は名人でなければ就任できず,御城碁の組織,将軍の指南,免状の発行などいっさいの行事をとりしきることができ,その絶大な名誉と特権を目ざして必死の努力が続けられ,結果的に碁の技術は飛躍的な向上をとげることとなる。なお,碁所の地位を得た者は次の8名のみである。…

※「御城碁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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