石薬師村(読み)いしやくしむら

日本歴史地名大系 「石薬師村」の解説

石薬師村
いしやくしむら

[現在地名]鈴鹿市石薬師町

鈴鹿川北岸の台地上、南北に細長い東海道の宿駅で、北部を浪瀬なみせ川、南をがま川が東流し鈴鹿川に入る。古くは川に近い所にあったが、水害を避けて石薬師寺近くの古里ふるさと付近に移ったと伝えられる。江戸時代初期までは高富たかとみ村と称していた。「神鳳鈔」の河曲かわわ郡に「高富御厨二十丁」とあるのはこの地のこととされる。戦国時代この古里(東条ともいう)付近に片岡則宗が城砦を築き、高富城または東条ひがしじよう城と称し、則高・則正と続き、五千貫の地を領した(三国地志)。天正一二年(一五八四)豊臣秀吉織田信雄との争いに、秀吉軍に攻められ滅んだ。砦の遺構はないが、片岡将監則高の墓は今も残っている。

高富村の文禄検地帳(大森家蔵)には、田畑屋敷合二五町六反四畝二三歩、分米合三五六・五五三石とある。慶長六年(一六〇一)神戸一柳監物の領分となったが、元和二年(一六一六)ここに石薬師宿が置かれることになった。同地の元本陣小沢家に残る延享四年(一七四七)の宿役軽減歎願書に「往古四日市より亀山宿馬継にて御座候処、此間道法五里余にて人馬共難儀仕候に付、元来石薬師宿は元和中まで高富村と申す小村にて、薬師堂の前に村居仕り罷り在り候。百三拾弐年已前、元和弐辰年、京都御所司板倉伊賀守様御見分にて御伝馬宿に仰付けなされ候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報