石神遺跡(読み)いしがみいせき

日本歴史地名大系 「石神遺跡」の解説

石神遺跡
いしがみいせき

[現在地名]勢和村色太 石神

にごり川流域は旧石器時代から縄文時代各期にわたる遺跡分布密度が高い。当遺跡もその一つで、舌状に突出する左岸側の中位段丘縁辺にある。国鉄栃原とちはら駅が南約一・二キロ。標高は約七〇メートル。現在は養鶏場。ここから昭和二一年(一九四六)黄褐色粘質土層から土器を伴わず、石器および剥片が総数一七点、集中的に一括出土した。石材はすべてサヌカイト製。これらの器種別内訳は尖頭器(木葉形、有舌)三点、打製石斧三点、掻器七点、剥片四点。いずれも比較的大型品で、厚さ一センチほどの板状剥片を素材とし、掻器・剥片には横剥ぎの大きな剥離痕が残る。

石神遺跡
いしがみいせき

[現在地名]森田村床舞 石神

狄ヶ館えぞがだて溜池に南から半島状をなして突出する、標高約一五メートルの舌状台地に営まれた縄文時代前期および中期の遺跡。遺物の出土は明治の頃から知られていた。

昭和三九年(一九六四)開田化工事で多量の遺物が発見され、翌年より三次にわたって発掘調査が行われた。出土遺物は、前期初葉の深郷田式から、中期末に至る円筒土器各型式と、東北地方南部に中心をもつ大木系土器など、一四型式に及ぶ多量の土器をはじめ、十数種の石器、状耳飾・各種玉類のほか土偶・岩偶などの出土もある。

石神遺跡
いしがみいせき

[現在地名]明日香村大字飛鳥 石神

飛鳥時代から奈良時代にかけての宮殿関係遺跡。明治三五年(一九〇二)須弥山石や道祖神像が出土した場所として古くから知られている。

昭和五六年(一九八一)から奈良国立文化財研究所(現在の奈良文化財研究所)によって継続的に調査が行われている。その結果、南北一七五メートル、東西一四〇メートル以上で、南は東西塀を境に水落みずおち遺跡に接し、北も東西方向の塀と石溝で区画されている。

石神遺跡
いしがみいせき

[現在地名]小諸市八満

八満はちまん集落の北、標高八二〇メートル付近の浅間山麓の広々とした緩傾斜面にある。三―四ヘクタールに及ぶ遺跡中心部には泉が湧き、欅の大木のもとに俗称石神とよばれる古祠がある。古くから遺物採集地として有名で、祠には大小の石棒が集められていたという。

昭和四七年(一九七二)耕作中、鉄平石利用の敷石住居跡の一部を発見した以外、正式な学術調査は実施されていないが、地元研究者の膨大な採集遺物から縄文時代中期―晩期に及ぶ当地方最大級の集落跡であることは確実である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報