矢掛村(読み)やかげむら

日本歴史地名大系 「矢掛村」の解説

矢掛村
やかげむら

[現在地名]矢掛町矢掛

現矢掛町域の中央部、東流する小田川左岸に位置し、同川に西辺を南流する美山みやま川が合流する。東は東三成ひがしみなり村、北は小林おばやし村、西は川面小林かわもおばやし村。小田川の北を並行して山陽道が通り、矢掛宿が置かれた。寛永年中(一六二四―四四)、宿を中心とした町分と陸分(村分)に高分けされ、宿は矢掛町とも称された。

今川了俊の「道ゆきぶり」に「かるヘ川せいやまなどうちこえて、屋蔭といふさとにとゞまり侍ぬ」とみえ、「もののふの猛き名なれは梓弓やかけに誰かなひかさるへき」と詠じている。検討の余地は残るが「小田郡誌」に収める天正三年(一五七五)一二月一八日の毛利輝元宛行状にみえる「参百五十貫 西三成」は当地のことか。文禄の役に際して、肥前名護屋なごや(現佐賀県東松浦郡鎮西町)に在陣した豊臣秀吉の文禄二年(一五九三)帰路の宿泊次第(萩藩閥閲録)に「やかけとまり」とある。

寛永備中国絵図では矢懸村とあり、高八九六石余、松山藩領。元禄五年(一六九二)の差出書下書(石井文書、以下断りのない限り同文書)などによれば、寛永一九年幕府領となり、このとき宿の支配機構整備をはかるために町分と陸分に高分けし、庄屋も別立てにするなどの措置がとられたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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