真福寺跡(読み)しんぷくじあと

日本歴史地名大系 「真福寺跡」の解説

真福寺跡
しんぷくじあと

[現在地名]羽島市桑原町大須

名鉄竹鼻たけはな線北西の長良川沿いにあり、跡地に単立の同名寺院が建つ。もとの真福寺は慶長一七年(一六一二)徳川家康により名古屋に移転させられ、現在宝生ほうじよう(通称大須観音)と号し、真言宗智山派、本尊正観音。

真福寺の前身中島なかしま観音堂といい、所在地は長岡ながおか庄河東西方にしがた郷で、尾張氏の氏寺的存在であったとみられる。寛元三年(一二四五)一二月一八日および翌四年七月一八日、尾張俊村とその嫡男俊秀は中島郡尾塞おぜき(現愛知県一宮市)海西かいさい一乗寺いちじようじ東方の私領田畠を、尾張氏の後生を弔うため中島観音堂に寄進(「尾張俊村寄進状」宝生院文書。以下同文書は省略)、文永一二年(一二七五)二月一八日には比丘尼浄戒・尾張俊明等も田畠を「中島観音寺之阿弥陀堂」に寄進している(比丘尼浄戒寄進状)。鎌倉時代末期には北野天満宮が同地に勧請され、元亨二年(一三二二)一一月二九日の長岡庄預所某寄進状に「新北野社」とみえる。

真福寺跡
しんぷくじあと

[現在地名]美原町真福寺

おく池の西側にあり、式内社櫟本いちもと神社の宮寺であったという(河内名所図会)。櫟木山と号し、天平年間(七二九―七四九)行基の創建で坊舎三〇余を有したと伝える(大阪府全志)。奈良西大寺叡尊は一三世紀中頃より摂河泉地方を布教するが、建長六年(一二五四)三月西琳さいりん(現羽曳野市)からの帰途当寺へ寄り結界・布薩した(感身学正記)。文永三年(一二六六)には「於河内国真福寺遂塔供養、此日和泉河内摂津三ケ国非人一千余人、人別与飲食斗俵施主戒仏房」(同書同年一二月三日条)と、当寺塔供養の時非人一千余人を集め人別に飲食と斗俵とを与えている。

真福寺跡
しんぷくじあと

[現在地名]北条市和田

国鉄予讃本線の東、和田わだ池の近くの字中屋敷なかやしきにあった寺院。真言宗醍醐派、海岸山と号し、本尊は地蔵菩薩寺谷の光徳てらだにのこうとく院末寺であった。

由緒によれば、建治二年(一二七六)日照によって創建された天台宗寺院であったが、寛文一一年(一六七一)僧乗弁が中興開山として再建した際、真言宗に改宗したという(新編温泉郡誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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