百石町(読み)ひやつこくまち

日本歴史地名大系 「百石町」の解説

百石町
ひやつこくまち

[現在地名]弘前市百石町

城の東側に位置し、東長ひがしなが町と土手どて町を南北に通る道筋町並。東は土淵つちぶち川を挟んでおかち町・徒町川端おかちまちかわばた町、西は元寺もとてら町との道筋沿いの鉄砲てつぽう町・上鞘師かみさやし町・下鞘師町および百石町小路と接する。

寛永末年の津軽弘前城之絵図(櫛引元三氏蔵)には、侍屋敷として町割され、東側の屋敷数は一九。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には、侍町とあり軒数五五、うち空家二、四六が武家屋敷で、足軽組頭と思われる屋敷が六。

百石町
ひやつこくまち

[現在地名]彦根市京町きようまち二丁目

江戸えど町の一筋西にある両側町。江戸前期は御歩行おかち町とも称した。寛延二年(一七四九)の家並分限帳(彦根市史)には御徒歩町とあり、禄高三〇〇―一〇〇石の武士一八人、一〇〇―五〇石が三人などの居住が確認され、江戸後期には鉄砲奉行の上坂氏(禄高一一〇石)、城中番頭の武居氏(同一二〇石)、松原蔵奉行の辻氏(同一五〇石)、代官役の横内氏(同一一〇)、奥医師の津田氏、表医師の飯島氏、鷹役の松村氏、馬役頭取の羽田氏などが住した(井伊家役人帳など)

百石町
ももいしまち

面積:二一・六〇平方キロ

上北郡の東南端に位置する。三本木さんぼんぎ原の東側、太平洋岸沿いにあり、南北およそ一〇キロ、東西およそ三・五キロの長方形をなす低地である。北は三沢市、西は下田しもだ町、南は八戸はちのへ市に接する。西側は三沢台地といわれる中位段丘が緩やかな勾配をなし、全体が低地となっている。南の八戸市との境界を奥入瀬おいらせ川が東流し、太平洋に注ぐ。西南端の市街地を国道四五号が通り、市街地の北から国道三三八号が分岐して下北方面へ向かう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報