白水村(読み)しらみむら

日本歴史地名大系 「白水村」の解説

白水村
しらみむら

[現在地名]溝口町白水

北西流する日野川右岸の山裾に位置し、村内で同川に西流する白水川が合流する。北西の宮原みやばら村から日野川沿いを日野往来が通り、同川に向かって耕地が階段状に造成されている。白水川は大山ノ沢に源流をもつ一級河川で延長六・四キロ、上流は伏流水大滝おおたき村付近で河床をなし、深い谷をつくる。拝領高は五九石余、本免は六ツ八分。日野郡の村々は、三郡地払所として年貢米の収納は銀納による地蔵納とされた。宝暦五年(一七五五)困窮を理由に地蔵納を願出て、三ヵ年これを許され、同八年には三分の一を米子御蔵納、三分の二を地蔵納とすることを同じく三ヵ年許可された(藩史)

白水村
しろみずむら

[現在地名]鹿屋市白水町・小野原町おのばるちよう上野町うえのちよう天神町てんじんちよう海道町かいどうちよう

木谷きだに村の南に位置し、東は鹿屋郷中名なかみよう村、南東大姶良おおあいら野里のざと村、北から西は木谷村。花岡はなおか郷のうち。享保一〇年(一七二五)大姶良郷野里村の一部八〇〇石を割いて白水村とし花岡郷のうちとなった(「三州御治世要覧」「花岡村郷土誌」など)。「三州御治世要覧」によれば、延享(一七四四―四八)頃の高八〇〇石。旧高旧領取調帳では高八二〇石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」によれば家数一〇五。「薩藩政要録」などによれば半浦の荒平あらひら浜があった。文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)に荒平新浜として浦男女四、浦水手役八〇人立とある。

白水村
しらみずむら

[現在地名]いわき市内郷白水町うちごうしらみずまち

しん川上流にあり、北は内町うちまち村・みや村、東はつづら村、南は湯本ゆもと村。天正四年(一五七六)一二月吉日の源氏女寄進状(薬王寺文書)に「しら水に大師堂御とり立につゐて、西かうニ候ちやう慶しの寺りやうあひつけまいらせ候」とみえ、佐竹義昭娘で岩城親隆の妻である女性が当地に大師堂を建て、それに西にし郷の長慶ちようけい寺の寺領を寄進している。同六年二月一五日の源氏女禁制(同文書)によれば、「白水、令建立大師堂」における竹木の伐採・殺生を禁じ、諸公役の免除などを命じている。磐前いわさき郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛文一〇年(一六七〇)以降湯長谷藩領。

白水村
しらみどむら

[現在地名]喜界町白水しらみず

早町そうまち村の南西に位置し、東部は海に臨む。ひが間切のうち。一五世紀の頃、勝連かつれん(現沖縄県勝連町)を拠点とした勝連親方が琉球王国から喜界郡守を命じられ、その一族は当地に居を構えたという。その系譜を引くという勝家一族のなかには勝連家・前殿地と記した標柱を建てた広大な屋敷をもつ家もある。元禄五年(一六九二)の喜界島帳留(列朝制度)に東間切与人のとして「白水村」とみえる。文化七年(一八一〇)竹木の用立てを命じていたところ取締が不行届きであるとして白水村の荘淳、西目にしみい村の実喜志、坂嶺さんみ村の倫春の三人が竹木横目に任じられている(喜界島代官記)

白水村
はくすいむら

面積:四七・八八平方キロ(境界未定)

南郷谷のほぼ中央にあり、東は高森たかもり町、西は長陽ちようよう村、北は阿蘇町、南は久木野くぎの村・蘇陽そよう町に接する。阿蘇山の南側斜面に位置し、村の南端を白川が西流する。阿蘇山の南傾斜地から南端の白川まで、東北から西南に向けて緩傾斜をなし、標高約四五〇メートルの地域に大部分の耕地がある。

白水村
しらみずむら

[現在地名]作東町白水

土居どい村の南に位置し、西は角南すなみ村。白水川が流れ、山家やまが川に注ぐ。正保郷帳に村名がみえ、田九八石余・畑九〇石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高六九石余・開高二八石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は土居村と同様。元禄一三年国絵図改のため領境改が行われ、当村から和気わけ八塔寺はつとうじ(現吉永町)まで五二町と計測されている(撮要録)

白水村
しらみずむら

[現在地名]西区伊川谷町潤和いかわだにちようじゆんな

伊川下流に位置し、南西は東河原ひがしがわら村。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳によると田方四八四石余・畑方五六石余、芝山あり。元禄郷帳も同高。明石藩領東浦部組に所属。享保年間(一七一六―三六)の「明石記」によると高五四〇石余、南北一町半・東西一町一六間。池一六・井水六、川除け六〇八間、土橋五。延命寺・地蔵堂、天神森・大歳神森、枝郷に赤羽あかば(南北二〇間・東西一町一〇間)がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報