畠等村(読み)はたとうむら

日本歴史地名大系 「畠等村」の解説

畠等村
はたとうむら

[現在地名]皆瀬村畑等はたとう

皆瀬川の上流に点在する村々からなり、田地はほとんどみられない。北は稲庭いなにわ(現稲川町)、東は大川目おおかわめ山・円森まるもり山・足倉あしくら山を峰境に椿台つばきだい村・檜山台ひやまだい(現東成瀬村)南西川向かわむこう村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に稲庭の内畑等村とあり、高の記載はない。元禄一五年(一七〇二)の出羽国秋田領変地其外相改候目録(県立秋田図書館蔵)には「古御絵図ニ無高ニ郷形御座候、此度相改申所ニ高出申」とあり、享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)では村名について、「元禄畑等村、但誤新田出、其外諸帳不出」と記す。菅江真澄の「雪の出羽路」は「本トは河向ノ郷と畑等一郷なりしか、享保九年より両村と別れり」と伝え、享和三年(一八〇三)の出羽国郡村仮名附帳(県立秋田図書館蔵)では川向村の支郷の扱いとなっている。

畠等村
はたけらむら

[現在地名]富山市水橋畠等みずはしはたけら

常願寺川(現在は白岩川)左岸沿いに位置し、北は西水橋町。「越中志徴」に「此邑名ハタケラと呼ベリ、(中略)畠原の意ならんか」とある。文治年間(一一八五―九〇)畠等(畑等)四郎左衛門は、源頼朝に追われた源義経一行の常願寺川渡河を手助けしたと伝え、瀬踏みをした浅瀬はのちに「海士が瀬」と称されたという(同書)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高六三石・免四ツ一歩。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報