由良浦(読み)ゆらうら

日本歴史地名大系 「由良浦」の解説

由良浦
ゆらうら

[現在地名]洲本市由良一―四丁目・由良町由良

内田うちだ村の南にある。淡路島南東隅に位置し、紀淡海峡に面して、内海(大阪湾)外洋(紀伊水道)との接点にあたる。津名つな郡に属する。天正一四年(一五八六)一一月三日の羽柴秀吉知行方目録によれば「ゆら」二五三石九斗が脇坂安治領となっていた。また同日付の淡路国御蔵入目録には「ゆらいかり公事」二石七斗(ただし代二貫三〇〇文分)が記され、由良湊も脇坂安治の支配下にあった。由良湊では文禄の役に従軍する淡路水軍の母港として大船の建造が行われ、「淡路草」には「由良の湊に唐船つくる柏原山におがの音」という農歌が所載されている。慶長一五年(一六一〇)淡路を与えられた池田忠雄は淡路支配の南の拠点を由良に定め、由良城(成山城)を築いた(「寛政重修諸家譜」「池田家履歴略記」など)。同一八年には当地など三ヵ所の鍛冶に対し、在々へ鍬鎌を売り代米を得ることが許可されている(「池田氏家臣乾平右衛門鍬鎌売免許状」山本家文書)

慶長二〇年五月二一日、大坂の陣の功により阿波徳島藩蜂須賀氏に淡路一国が加増された。蜂須賀氏は当初由良の地を淡路領有の拠点とし、閏六月二二日城を受取った。城代には稲田修理亮らが派遣された(阿淡年表秘録)。しかし由良浦は海上交通の要衝とはいえ島の南東に偏し、背後に山が迫っているため城下町を造る余地もないなど、淡路一国を支配する地にふさわしくないとされ、寛永七年(一六三〇)城塞・政庁の洲本移転を幕府に申請、同年七月幕府の承認を得た(「淡州御城之義ニ付御老中より之書状―右御控并中条次太夫言上書添」蜂須賀家文書など)。これに基づく城塞・政庁・武家屋敷・寺院・町家などの移転を由良引けという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報