由利本荘(読み)ユリホンジョウ

デジタル大辞泉 「由利本荘」の意味・読み・例文・類語

ゆりほんじょう〔ゆりホンジヤウ〕【由利本荘】

秋田県南西部にある市。子吉川が貫流し、北部平野部は稲作が盛ん。平成17年(2005)3月に本荘市と由利郡7町が合併して成立。人口8.5万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「由利本荘」の意味・読み・例文・類語

ゆりほんじょう ユリホンジャウ【由利本荘】

秋田県南西部、日本海に面する市。平成一七年(二〇〇五)、本荘市と周辺の七町が合併して成立。

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改訂新版 世界大百科事典 「由利本荘」の意味・わかりやすい解説

由利本荘[市] (ゆりほんじょう)

秋田県南西部の市。2005年3月本荘市と岩城(いわき),大内(おおうち),鳥海(ちようかい),西目(にしめ),東由利,矢島(やしま),由利の7町が合体して成立した。人口8万5229(2010)。

由利本荘市北端の旧町。旧由利郡所属。1955年亀田町と道川村が合体,改称。町名は亀田藩岩城氏の名にちなむ。人口6582(2000)。秋田市と旧本荘市に挟まれ,日本海に面する。笹森丘陵が海岸に迫り,衣川,君ヶ野川の谷底平野を除き平たん地は少ない。中心地亀田は衣川谷口に位置し,中世には赤尾津(あこうづ)と呼ばれ,由利十二頭の赤尾津氏が支配した。1623年(元和9)岩城氏が2万石で入封し,赤尾津を亀田に改めた。同氏は高城山麓に陣屋を築き,周囲には侍町,町人町を配置した。1868年(明治1)の戊辰戦争では,亀田藩は最初は秋田軍についたが,庄内軍に攻められて降伏,のち戦況が逆転して,秋田軍に敗れ,町も焼失した。明治以降は,羽越本線からはずれたため商業機能は本荘に集中し,亀田町は衰微した。日本海沿いには砂丘が発達し,北部の道川地区では秋田市を市場とする野菜栽培が盛ん。藩政時代に手内職として発達した純綿の縞の反物の亀田地織が特産で,ゼンマイの綿毛を織り込むゼンマイ織がある。妙慶寺,竜門寺など古刹(こさつ)も多い。JR羽越本線が通り,日本海東北自動車道のインターチェンジがある。

由利本荘市北東部の旧町。旧由利郡所属。1970年町制。人口9794(2000)。子吉(こよし)川支流の芋川の中・上流域を占める。町域の大部分は笹森丘陵北部にあたり,山林に覆われている。中心地はJR羽越本線羽後岩谷駅のある岩谷。中世は由利十二頭の所領,近世は亀田藩領で,川大内郷と呼ばれた。芋川沿いの河岸段丘沖積平野に耕地が広がり,米を中心にメロン,サヤエンドウも栽培される。丘陵地では畜産が盛んで,黒毛和牛の産地として知られる。山林の人工林率が高く,製材所も多い。芋川上流に滝温泉(含ボウ硝食塩泉,13℃)がある。

由利本荘市南部の旧町。旧由利郡所属。1980年町制。人口6813(2000)。子吉川の上流,鳥海山東麓を占める。子吉川支流の笹子(じねご)川,直根(ひたね)川の谷沿いに集落が分布し,中心集落は最上街道と直根街道の分岐点に成立した伏見である。河岸段丘が発達し,谷底平野は水田になっている。提鍋(さげなべ)地区には東北地方有数のタバコ生産団地があり,鳥海山麓では酪農,肉牛飼育も行われる。町域の大部分を山林が占め,ブナ材の伐採やナメコたけのこなどの山菜採取が盛ん。子吉川上流は古くから開発された電源地帯で,1922年建設の鳥海第1発電所をはじめ五つの発電所がある。鳥海川上流の百宅(ももやけ)はまたぎの村としても知られ,本海番楽を伝える。百宅の奥にある法体(ほつたい)の滝は57mの落差をもつ。鳥海山の裏登山口として百宅口,猿倉口がある。

由利本荘市西端の旧町。旧由利郡所属。人口6615(2000)。西は日本海に面し,南部は鳥海山北麓をなす高原で,北部は西目潟干拓地を中心に水田地帯を形成する。西目潟は1828年(文政11)から35年(天保6)にかけて干拓され,大正期には積極的な土地改良が行われたが,農家の経営規模は小さく,果樹栽培,畜産など複合経営を目ざしている。県内でも有数の町有林野をもち,明治末年より杉,松の植林を行ってきた。出戸(でと)には西目漁港があり,サケ,クルマエビなどの養殖に力を入れている。南部の孫七山には1973年に完成した県の心身障害者コロニー〈鳥海の園〉があり,入所者,職員が牧畜を中心に自立活動を行っている。出戸に鎌倉時代後期の由利仲八郎の居城と伝える浜館城跡がある。JR羽越本線,国道7号線が通じる。

由利本荘市東部の旧町。旧由利郡所属。人口4860(2000)。出羽山地の山々に囲まれ,町の中央を石沢川(高瀬川)が流れ,川沿いに国道107号線が通じる。耕地と集落は石沢川沿いに開けるが,平地は少ない。中世には由利十二頭の下村氏,玉米(とうまい)氏の支配地で,その居城跡に岩館,館合の地名が残る。中心集落の老方(おいかた)は近世,本荘街道の交通の要地として栄えた。1930-71年には横手~老方間に横荘(おうしよう)鉄道が通じていた。町の産業は農業を主とし,稲作のほかタバコ栽培や酪農,養豚などが営まれる。杉を中心とした造林も盛んで,シイタケマッシュルームなどの生産も多い。
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由利本荘市北西部の旧市。本荘平野の中央を占め,日本海に臨む。1954年市制。人口4万5724(2000)。中心市街地の本荘は近世には本荘藩六郷氏2万石の城下町として由利地方の中心をなし,すし米として知られる良質な本荘米を集散した。酒田街道(国道7号線),本荘街道(107号線),矢島街道(108号線),刈和野街道(105号線)が通る交通の要衝で,JR羽越本線と由利高原鉄道鳥海山ろく線の分岐点でもある。市街地は海岸砂丘内側に立地したが,近年は東部や北西部地域の住宅地化が進んでいる。商業が活発で,17世紀後半に始まる大町の朝市は現在も続いている。製造業はかつては食品加工(清酒,青果物缶詰,ハムなど)が出荷額の1/3を占めていたが,現在は電気機器が47%(1995)を占めるようになり,機械,瓦なども生産される。また伝統工業に本荘塗(漆器)がある。六郷氏の居城本荘(鶴舞)城跡は公園になっており,桜,ツツジの名所である。六郷氏の菩提寺永泉(ようせん)寺や赤田の大仏として知られる長谷寺がある。
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出羽国由利郡の城下町。780年(宝亀11)設置とされる由利柵はその位置について諸説があるが,旧本荘市域内とみられる。鎌倉期,奥州清原氏の勢力下に入っていた豪族由利八郎がこの地の地頭職を得た。室町期には加賀美遠光の庶流が土着し,これを中心に由利十二頭と称する小土豪がこの地方一帯に分立し,対立抗争をくりひろげた。1602年(慶長7)最上氏の所領となり,家臣楯岡氏が尾崎山に築城し本城城と称し,町並みの整備を行った。22年(元和8)最上氏の改易により,代わって六郷氏が入り,2万石をうけ本荘と称した。町の西端,子吉川河口の古雪(ふるゆき)湊は近世に入って整備され,本荘藩や,流域上流に位置する矢島藩,北の亀田藩の米の上方への搬出港として栄えた。町は城の北西部に外町の古雪町,中町,出戸町の3町が,その東に内町が続き,外町の戸数は近世には1000軒前後とみられる。
執筆者:

由利本荘市南西部の旧町。旧由利郡所属。人口6246(2000)。鳥海山の北麓に位置し,中央部を子吉川が北西に流れる。羽後本荘駅を起点とする由利高原鉄道鳥海山ろく線の終点。子吉川沿いに国道108号線が通じる。中心地矢島は中世末期には矢島氏の所領で,1640年(寛永17)に讃岐高松より生駒氏が移封し,1万石の陣屋町として栄えた。地場産業として子吉川上流域から産するブナなどを利用した木工業や清酒醸造業があるほか,工場誘致も進められている。農業は米作中心だが,鳥海山北麓の由利原では酪農も盛ん。鳥海山の登山口(矢島口)にあたり,夏季には五合目の祓川までバスの便がある。延宝年間(1673-81)の建築と伝えられる県内最古の民家土田家住宅(重要文化財)がある。

由利本荘市中部西寄りの旧町。旧由利郡所属。人口6209(2000)。鳥海山北麓にあたる由利原の台地と,町中央を貫流する子吉川,西部の鮎川に沿う平野部とからなる。中心の前郷は,近世には子吉川水運の拠点として栄え,1922年には川沿いに横荘西線(本荘~前郷)が開通して商業中心地としても繁栄した。しかし37年,横荘西線が国鉄に買収されて矢島線(現,由利高原鉄道鳥海山ろく線)となり,翌38年に矢島まで延長されると,中心地としての機能は矢島に移った。由利原では46年以降積極的な開拓が行われ,西由利原地区は国のモデル開拓村に指定された。米作が産業の中心であるが,西由利原や東由利原などの高原地帯では,酪農や肉牛飼育も盛んである。また前郷には,繊維,レンズ加工などの工場が進出している。75年南由利原大谷地(おおやち)池のほとりに青少年旅行村が開設され,キャンプ場の利用客も多い。県指定無形文化財の屋敷番楽が伝わるほか,中央部の川西には,中世の在地領主由利氏末代の政春が拠ったという根城跡があり,政春の墓碑と伝える石碑もある。
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