田原城(読み)たわらじょう

日本の城がわかる事典 「田原城」の解説

たわらじょう【田原城】

愛知県田原市にあった戦国時代から江戸時代にかけての平城(ひらじろ)。同市指定史跡。戦国時代には一帯を支配した戸田氏の城で、江戸時代には田原藩1万2000石の藩庁が置かれた。1480年(文明12)に戸田宗光(全久)によって築城され、三河湾一帯の支配の拠点となった。周囲を海に囲まれた堅固な城だったといわれる。江戸時代の田原城は本丸、二の丸、三の丸、出曲輪(でぐるわ)、藤田曲輪などで構成される天守を持たない城だった。戦国時代、城主の戸田氏は三河で勢力を拡大した松平氏に属していたが、その後、今川氏に従った。1547年(天文16)、田原城主の戸田康光は、人質として駿府の今川氏に送られることになった松平広忠の嫡男竹千代(のちの徳川家康)の護送の任に就いた。このとき、康光は織田氏に寝返って竹千代を今川氏と敵対する織田信秀に送った。このため今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城し、城主康光は戦死した。その後、田原城には今川家の家臣が城代として入城したが、桶狭間の戦いの後、今川氏から独立した松平元康(のちの徳川家康)による三河平定の過程で攻略された。元康(家康)は譜代の本多広孝を城主として入城させている。1590年(天正18)に家康が関東に移封になると、田原城は吉田城に入った池田輝政の属城となり、輝政重臣の伊木忠次が城主となった。この時期に、石垣の修築や曲輪の整備などの大規模な城の改修が行われた。江戸時代には一帯は田原藩領となり、初代の藩主として、旧城主の田原氏の支族の戸田尊次が入城したが、1664年(寛文4)には三宅氏に藩主が代わり、以後、明治維新までの約200年間にわたって三宅氏の居城となった。明治の廃藩置県後の1872年(明治5)、廃城処分となり建造物は取り壊された。16世紀のものと推定されている野面積みの石垣などの遺構は残っているが、二の丸櫓(やぐら)は昭和以降に建てられた模擬建造物(復元建築ではない)で、内部は田原市博物館になっている。本丸跡には南朝の忠臣で三宅氏の家祖とされる児島高徳を祀る巴江神社があり、三の丸跡は渡辺崋山・村上範致・岡田虎次郎など郷土の偉人の顕彰碑がある護国神社になっている。豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約10分、またはバスで博物館下車。◇巴江城ともよばれる。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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