田代郷(読み)たしろごう

日本歴史地名大系 「田代郷」の解説

田代郷
たしろごう

近世鹿児島藩の外城の一つ。肝属郡を間に挟んで南北に分断された大隅郡に所属し、南部の大隅郡中東部に位置する。鹿児島藩直轄領。「三国名勝図会」に当郷は「禰寝郷を割て地頭を置く」とある。文禄二年(一五九三)三月二三日の建部重虎証状(禰寝文書)に「田代郷」とみえる。「三州御治世要覧」によると所属村はふもと村・川原かわばい村の二ヵ村で、両村は天保郷帳などでは大禰田おおねだ村として一括されている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では大禰田村は禰寝郷所属とみえる。地頭仮屋は勝尾かつお(田代城)跡の北側に置かれ、周辺に麓集落が形成されていた。宗廟北尾きたお六所権現(現北尾神社)とされる(三州御治世要覧)。なお諸郷地頭系図は当郷の初頭地頭を応永(一三九四―一四二八)頃の野間武蔵守とし、「禰寝領地之時地頭也」と記している。

田代郷
たしろごう

狩野かの川支流の大見おおみ川下流にある現田代を遺称地とする。暦応三年(一三四〇)五月一七日の足利直義下知状案(田代文書)に「伊豆国狩野庄内田代郷」とみえ、狩野庄に含まれていた。当郷の地頭田代氏は治承・寿永の内乱期から活躍がみられる田代信綱に始まり、当郷は同氏の名字の地であることから、地名は平安時代末期には成立していた。鎌倉時代を通じて田代氏の本領として存在し、暦応三年になっても、房綱が文書を紛失したため当郷が代々相伝であると述べて足利氏から認められていることから、南北朝時代まで田代氏の本領として存続していたことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報