牛首村(読み)うしくびむら

日本歴史地名大系 「牛首村」の解説

牛首村
うしくびむら

[現在地名]白峰村白峰

青柳あおやぎ(一〇三二・九メートル)西方に位置し、集落は手取川と支流大道谷おおみつたん川の合流点付近にある。同川沿いにたに峠を経て越前勝山に至る道は大道谷往来とよばれ、現在の国道一五七号がほぼこれにあたる。慶長六年(一六〇一)から延宝元年(一六七三)まで、当村の加藤藤兵衛が代官となり白山麓を治め、以後幕末に至るまでの大半は当村の山岸十郎右衛門が取次元(大庄屋)を勤めた(「白山麓十八ヶ村留帳」織田文書)。越前国正保郷帳では田高七石余・畑高一一石余。元禄一一年(一六九八)の十八ヶ村高小物成(斎藤文書)では免七ツ九歩八厘、家数二三三、小物成は夫銀二二四匁余・夫綿銀一三八匁余・夫糸代三七匁余。文久三年(一八六三)の白山麓十八ヶ村由緒控(金沢市立図書館蔵)による高三九石余、田三町・畑三町五反。同年の村高等書上控(山岸文書)では家数五三六・人数二千八二一、枝村として北のしも村と大道谷川上流の堂埜森どうのもり村があった。

牛首村
うしくびむら

[現在地名]津幡町牛首

大海おおみ川上流西岸の段丘上に位置。能登国羽咋はくい郡に属する。天正一二年(一五八四)九月佐々成政の軍が越中国沢川そうごう(現富山県福岡町)から当地に至ったという(三州志)。同一九年一二月前田利家が織田信長の旧臣不破源六広綱に宛行ったなかに牛首村六二〇俵余がある(「不破源六宛文書写」加越能文庫)。正保郷帳では高三四八石、田方一八町五反余・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三九七石、免五ツ四歩、小物成は山役三〇三匁・苦竹役六匁、鳥役一〇匁(出来)であった(三箇国高物成帳)

牛首村
うしくびむら

[現在地名]白川村牛首

しよう川の支流牛首谷の中流にある山村。牛首谷下流に荻町おぎまち村、西方坂越えでしま村に至り、北東は牛首峠(標高一〇七五メートル)越で越中国大勘場だいかんば(現富山県東礪波郡利賀村)。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高四斗余、田二反余・畑一反余。「飛騨国中案内」によれば免は一割七分九厘、家数二(百姓)。字牛首に橋長七間半・幅二尺の引渡橋がある。寛政元年(一七八九)の田三斗余・畑五石余、反別田二反余・畑五町余、焼畑高三石余・三町余、口留番所一(村明細帳)。「斐太後風土記」では焼畑三町六反余、ほかに享保一二年(一七二七)高入れの焼畑七町二反余、家数五・人数四〇余。

牛首村
うしくびむら

[現在地名]金沢市錦町にしきまち小立野こだつの一丁目

涌波新わくなみしん村の東、浅野川中流西岸に位置する。ウシガクビとも称した。正保郷帳ではたち村と併記され、両村合せて高三五三石余、田方一〇町九反余・畑方一二町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では、草高一四四石(ほかに新田七石)・免六ツ二歩、山役四八匁・漆役一匁の小物成があった(三箇国高物成帳)。ほかに、同四年の塩硝御蔵番人新開分高二石余があり、寛文年間の家高数五・百姓数八(高免付給人帳)。宝永五年(一七〇八)に五石、元文五年(一七四〇)に二斗の手上高があり、また寛文四年の新開地に漆の木が生立ったことから、延宝八年(一六八〇)に新たに漆役二〇目が賦課されたが、その後開発が進み漆の生産はなくなった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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