牛牧村(読み)うしきむら

日本歴史地名大系 「牛牧村」の解説

牛牧村
うしきむら

[現在地名]穂積町牛牧

上橋本かみはしもと村・柳一色やないしき村から五六ごろく川を隔てて西方に位置し、東を五六川、西をさい川に挟まれた平坦低湿地に立地。主集落は犀川東岸に沿った自然堤防上にあり、上牛牧・下牛牧に分れる。正和五年(一三一六)四月二五日の三善康基売券(金沢文庫文書)に「康基か知行分美濃牛牧庄」がみえる。慶長五年(一六〇〇)の井伊直政等連署書状(加藤文書)によれば関ヶ原合戦の際に稲葉通重が当村本田ほんでん村に在陣していた。合戦後は奥平忠隆(加納藩)領。慶長郷帳には下牛牧村とあり、高一千五六三石余。加納藩家中知行渡方帳(森文書)によれば、慶長一七年から数年間は加納藩重臣大島左馬助ほか二二名の給地。

牛牧村
うしまきむら

[現在地名]高森町牛牧

現高森町の南西にある山麓の村。「牛牧」の初見は永禄一二年(一五六九)武田信玄が牛牧郷の川除普請を命じた記事(「武田信玄朱印状」湯沢文書)である。村の北を流れる大島おおじま川の氾濫によるものであろう。元亀二年(一五七一)には、信玄が秋山信友に命じて大島城(現松川町元大島)を修築させた時、当村も人足を徴発された(「武田信玄朱印状」工藤文書)。江戸時代に入って、当村の農民榑木を引当てに千村預り領の蔵米を借用した慶長一九年(一六一四)の蔵米借用証文が何通か現存する(千村文書)。村高は正保四年(一六四七)が六三〇石余(信濃国絵図高辻)、天保五年(一八三四)には八六五石余(信濃国郷帳)であった。

牛牧村
うしまきむら

[現在地名]守山区牛牧・守牧もりまき

南を小幡おばた村、北をかわ村に挟まれている。寛文一一年(一六七一)の家数一五、人数男七一・女八五(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は一三町八反二畝余、畑は五町六反二畝弱で、概高三〇五石余のうち一七五石余が藩士七人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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