炭焼村(読み)すみやきむら

日本歴史地名大系 「炭焼村」の解説

炭焼村
すみやきむら

[現在地名]掛川市炭焼、周智しゆうちもり嵯塚さづか

北に大日だいにち(八八一メートル)、南に大尾おび(六七〇・九メートル)がそびえる。周智すち郡を流れる太田おおた川最上流部のよし(田代川)の源にあり、東は黒股くろまた村、南は田代たしろ村。「遠江国風土記伝」によると、宮箇島みやがしま中津賀なかづか佐賀野さがのの三つの里があり、「掛川誌稿」は当村の小地名としてみようしま・香折・嵯峨野さがの中塚なかつかを記し、天正一七年(一五八九)の総検地の際に与えられた八月二〇日付の証文に「其郷山中之事に候間、毎年納候ごとく、すみ六十二俵、さがの村みやうが島村両郷より納所あるべく候」と記されていたとしている。

炭焼村
すみやきむら

[現在地名]清水市西里にしざと

村の北西に位置する。村域は興津おきつ川と同川支流くろ川の流域山間を占め、黒川は当地で東流する興津川右岸に注いでいる。北は河内こうち村、西は安倍あべ俵峰たわらみね(現静岡市)など。興津川の南岸に本村、北岸に枝郷の河合野かわいの(川合野)があり、本村は和田わだ臥木ふしぎ(伏木)宮代みやしろ(宮城)下黒河しもくろがわ・上黒河(黒川)貝伏かいふしなどの集落に分れていた(「駿河志料」など)。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後幕府領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(国立史料館本元禄郷帳・享保一六年駿府代官所村高帳・旧高旧領取調帳など)元禄郷帳では高四二石余。

炭焼村
すみやきむら

[現在地名]宇美町炭焼・ゆりがおか一―二丁目・同四―六丁目・四王寺坂しおうじざか一―三丁目・貴船きふね一―五丁目・原田はるだ一―五丁目など

三郡さんぐん山の西に位置し、北は宇美村、南は四王寺村、西は御笠みかさ乙金おとがな(現大野城市)元禄国絵図に枝村として四王寺村、当村のうちとして内野うちの村が載る。明応六年(一四九七)六月二一日、河津掃部允弘業に「三笠郡内野参町地麻生弾正忠跡」が「穂波郡大豆俵五町地」の代所として宛行われている(「大内義興袖判下文案」江口文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)。河津氏は糟屋郡本拠を置く筑前国の国人で、弘業は郡代であったと考えられる。小早川時代の指出前之帳では御笠郡炭焼村の田二九町四反余(分米二九九石余)・畠一町七反余(分大豆一一石余)

炭焼村
すみやきむら

[現在地名]緒方町草深野くさぶかの 炭焼

大久保おおくぼ村の西にあり、北部を大野川が南西に流れる。文明一八年(一四八六)三月二〇日の清水則家打渡状(奥嶽文書)に「小河之内すミやき」とみえ、同所の代所としてうちかわの三反小・むろ四反・とひかさき五反六はくの地が工藤弾正に打渡されている。しかし工藤氏は炭焼の九段について越訴し、同年八月一〇日にはあかミね七郎左衛門跡のかわら田二段が工藤弾正に打渡されている(「清水則家打渡状」同文書)正保郷帳に村名がみえ、田高五二石余・畑高三〇石余、緒方郷に属した。

炭焼村
すみやきむら

[現在地名]今立町水間みずま

赤谷あかたに村の南にあり、水間谷の谷奥に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれるが、元禄郷帳で分村、村高一九八・〇三一石。天保一四年(一八四三)の炭焼村高反別小前帳(水間区有文書)によると田方二町九反余に対して畠方が一一町余を占める。その畠方も上畠三町二反余・中畠一町七反余・下畠六町九畝で下畠が全耕地の半分近くを占めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報