瀬戸鉛山村(読み)せとかなやまむら

日本歴史地名大系 「瀬戸鉛山村」の解説

瀬戸鉛山村
せとかなやまむら

[現在地名]白浜町 瀬戸せと湯崎ゆざき綱不知つなしらずなど

太平洋に臨む田辺湾の南岸に位置し、西も海に面し、東は堅田かたた村・才野さいの村。小名綱不知は東部にある湊で、田辺湾に面する。瀬戸の地名は「続風土記」に「其地形古海湾の北の端中間南北に切れて島ありて別に迫門せとをなせり(中略)海潮退きて迫門陸となり、島と一となる、人民始めて此地に村居をなしてより迫門の名此地の大名となり、大字を瀬戸と改む」、また鉛山は「鉛を掘りたるに起る」と記される。「水左記」承暦四年(一〇八〇)九月一一日条に「今日宣旨請文一通紀伊国勢門庄事、副本宣旨并文書七通付大夫史祐俊了、去々年依花台院検校権律師慶朝訴所被下問也」と「勢門庄」がみえ、同年一一月一〇日条にも関連記事がみえるが、当地との関係は確定しがたい。

慶長検地高目録には「瀬戸村」と記され村高二六〇石余。元和五年(一六一九)和歌山藩田辺領となり、寛文二年(一六六二)和歌山藩領、嘉永七年(一八五四)同田辺領、文久三年(一八六三)以降和歌山藩領と推移。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報