瀬戸浦(読み)せとうら

日本歴史地名大系 「瀬戸浦」の解説

瀬戸浦
せとうら

[現在地名]芦辺町瀬戸浦

箱崎はこざきの南部にある浦。弘仁六年(八一五)壱岐に異賊が襲来したため当地など一四ヵ所の崎に要害が設けられたという(壱岐名勝図誌)

〔中世〕

弘安四年(一二八一)七月二日、壱岐島沖に結集したモンゴル軍に対して、鎮西奉行少弐経資を総大将として肥前肥後筑前薩摩などの御家人が攻撃を仕掛けており、瀬戸浦海戦ともいうが、「鎮西要略」は「松浦党・彼杵党・千葉・高木・龍造寺等数万の兵を以て壱岐島の瀬戸浦に襲ひ相戦ふ。先に克く勝に乗ず。異族は舸上の高楼に登り、大いに火鉄砲を放ち大いに之を禦がんとす。我が兵が為に砕き破るも死創は若干なり」と記している。同年七月二日の「壱岐島瀬戸浦」での合戦には肥前国御家人の龍造寺家清が参陣しており、合戦証人の起請文を肥前国守護の北条時定に提示し、時定は鎌倉幕府に披露することを約束している(同五年九月九日「肥前守護北条時定証状」龍造寺文書)。龍造寺系図(太宰府天満宮史料)には瀬戸浦で合戦したのは季時で、顕高が討死したと記されているが、「伏敵編」では季時が討死したことになっている。これより先、文永一一年(一二七四)頃瀬戸浦は椙原すぎはら村とともに筑前筥崎はこざき八幡宮(現福岡市東区)領となり、弘安の役の功としてその預所職が少弐景資に与えられていたとされる。

瀬戸浦
せとうら

[現在地名]大瀬戸町瀬戸樫浦郷・瀬戸板浦郷

角力すもう灘に臨む江戸時代の湊津。天正二〇年(一五九二)頃、朝鮮半島に出陣する島津氏の家臣大島忠泰の一行は四月一五日にかば(現野母崎町)着岸、同月二一日に出船して一八里の「瀬戸」に着き、二四日に平戸に赴いている(「大島忠泰高麗道記」旧記雑録後編)。一六一六年(元和二年)平戸のイギリス商館のニールソンの船は逆風のためフーケー(宝亀か、現平戸市)に宿泊、翌日逆風と逆潮に難儀しながらセットーSetto(瀬戸か)に到着、一泊している。翌朝イケノウラ(雪ノ浦か)に向かっている(イギリス商館長日記)。江戸に向かうオランダ商館一行は、長崎湊より福田ふくだ(現長崎市)・瀬戸などを経て平戸に入ったようで、一六三〇年(寛永七年)三月、平戸の商館員らは長崎を出て日没頃に瀬戸の海峡(松島水道か)を通過している(平戸オランダ商館の日記)。一六四五年(正保二年)には瀬戸を経て河内かわち(現平戸市)に向かい、一六五一年(慶安四年)江戸に向かう長崎オランダ商館一行は瀬戸の海峡に投錨、約一時間停泊して海峡を進み、翌日九十九くじゆうく島の間を通過、平戸に向かっている(以上、同日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報