溝呂木村(読み)みぞろぎむら

日本歴史地名大系 「溝呂木村」の解説

溝呂木村
みぞろぎむら

[現在地名]赤城村溝呂木・さかえ

赤城山麓原野に位置する村。東は原野、北は勝保沢かつぼざわ村、西は見立みたち村・三原田みはらだ村、南は持柏木もちかしわぎ村。沼田街道が通り、溝呂木宿があった。天正一〇年(一五八二)と推定される八月一七日の狩野隠岐守宛北条氏直感状写(狩野元之助氏所蔵文書)に「去月廿一日溝呂木之地之南雲大膳、於森下敵弐人打捕」とみえ、津久田つくだ城主狩野河内守安久の孫隠岐守祐範は、天正一八年長井坂ながいざか城落城後この地に移住帰農したという(狩野氏系図「敷島村誌」所収)。平岩親吉が同年厩橋(前橋)入部、同二〇年二月二七日、甲斐の国人御岳(嶽)衆二四人に与えた知行宛行状(御嶽神社文書)に「高籾四百六(俵)三升四合 溝呂木之郷」とある。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領(寛延二年まで)。寛文郷帳によると田方一〇〇石余・畑方六八石余。天保一三年(一八四二)の村明細帳(溝呂木区有文書)によると高三四一石余、うち六八石余は幕府領(寛延二年から)、二七三石余は旗本大久保領(文化九年から)、家数四五・人数一三八、馬一九、「女者収納之間木綿布仕申候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報