湯村(読み)ゆむら

日本歴史地名大系 「湯村」の解説

湯村
ゆむら

[現在地名]岩美町岩井いわい

宇治うじ村の南に位置する。集落を但馬往来が通る。同往来は古代山陰道の後身と考えられ、「延喜式」兵部省に載る山陰道「山埼駅」を当地にあてる説がある。また地内の大野おおのが「和名抄」に載る巨濃この郡大野郷の遺称地とされるほか、地内には古代寺院跡も残る。

村名は地内から温泉が湧出することにちなむ。正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)に「湯村宿」とみえ、寛永九年(一六三二)から寛文年間(一六六一―七三)にかけては岩井湯村とも称されたが(在方御法度・在方御定)、元禄一四年(一七〇一)湯村に改められている。また同年宇治村が枝郷として分村している(「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は九二一石余、本免は四ツ八分。「因幡志」によれば家数一五八。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高九四六石余、竈数一〇九。江戸時代初期から但馬往来の宿場で、寛永一四年の駄賃銀宿賃書付(在方御定)によれば、鳥取まで四里一六町の駄賃は二匁四分で、宿賃は主人(馬とも)一〇文・下人五文であった。寛政(一七八九―一八〇一)頃の役馬は一二疋(因幡志)。温泉は戦国期の戦乱で中絶していたが池田光仲が再興したといい(同書)、自らの宿泊・休憩のための御茶屋と入湯のための湯小屋を設けたとされる(岩美町誌)。物成引として湯庄屋給二石・御茶屋守給一石などがあった(弘化四年「下札帳」石谷家文書)。また長谷山札役米一斗三升五合を上納したが(同下札帳)、これは長谷ながたに村地内の藩有林使用にかかるもので、数枚の免札が交付され実際の利用者が運上米として負担したようである。

湯村
ゆむら

[現在地名]甲府市湯村一―三丁目・緑が丘みどりがおか二丁目

千塚ちづか村の北東にあり、東は塩部しおべ村。ほぼ中央を湯川が南流する。古くは湯の島ゆのしま村と称し、この名は中世にこの周辺が志摩しま庄に属したと伝わることから、志摩の湯の意味ともいう。「高白斎記」大永三年(一五二三)四月二四日条に「湯ノ島ノ山城」を築城したことがみえる。寛永二〇年(一六四三)甲斐に配流された八宮良純法親王が当地滞在のおり湯村と名付けたとの伝承もある。往古は穂坂ほさか路沿いにわずかの家居があり、一面葦の原で湯が所々湧き出して田地にもならなかったが、その場所を湯治場として開発し、村も引移ったと伝える(年欠「村明細帳」広瀬初枝家文書)。慶長六年(一六〇一)の検地帳(同文書)には湯島村とあり、高二三三石余、うち地蔵(塩沢寺)免二石余・権現領七斗余。田九町八反余、うち麦田三町二反余、畑一町三反余、桑一六束半、永荒地一町四反余、屋敷地五反余。

湯村
ゆむら

[現在地名]温泉町湯

現温泉町の北部中央に位置する。岸田きしだ川の支流春来はるき川の流域を占め、山陰道が通る。北西は細田ほそだ村、南東は歌長うたおさ村。古くから温泉が湧出し、山陰道の宿場的な性格を有し、また商業活動も盛んであった。古代二方ふたかた温泉(和名抄)、中世温泉庄の遺称地。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ゆむら たてわき殿」「たんくわ」などとみえ、「たんくわ」は旦過(宿泊所)と思われる。慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、同一〇年頃に旗本宮城領となり、寛永二〇年(一六四三)宮城氏が無嗣断絶となると幕府領に転じた。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となるが、享保一一年(一七二六)に同藩主京極高寛が没し、高寛に世嗣がなく同家が絶家となった際に幕府領に転じ(豊岡藩はのち弟の京極高永が再興)、同領で幕末に至ったと考えられる(元和三年宮城豊盛領二方郡高帳・元禄郷帳・宝暦七年但馬国高一紙、「但馬国高附郡訳手控」岡田家文書、「寛政重修諸家譜」「断家譜」、「但州二方郡城主時代記」竹中家文書など)

湯村
ゆむら

[現在地名]鳥取市吉岡温泉町よしおかおんせんちよう

六段田ろくたんだ村の南、箕上みのかみ山の北麓にある。東の三山口みやまぐち村から鹿野しかの往来が通り、南西の瀬田蔵せたぐら村へ抜ける。村名は温泉が湧出することに由来し、吉岡村とも称された(因幡志)。拝領高は五六二石余、本免五ツ一分。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)によれば朱高五三四石余・生高五五七石余、物成二九八石余、山札銀一七匁五分・湯運上銀三〇〇匁を課されていた。「因幡志」の家数一二七。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)では男一四六・女一四四、嘉永二年(一八四九)の組合帳(同文書)では竈数一二七。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五五七石余、竈数一三二(うち山伏一)

湯村
ゆむら

[現在地名]気高町勝見かちみ新町しんまち二―三丁目

沢田さわだ村の南、浜村はまむら川流域(勝見谷ともいう)西方山麓に位置する。東は小谷こだに村。地内に勝見温泉がある。同温泉は歴代鳥取藩主の入湯も多く、藩主宿所として御茶屋が設けられていた。ふる町としん町の二条の町があり、古町は御茶屋の上手、馬場に通る道筋、新町は西の方へ至る道筋であった(勝見由来)。制札所が置かれた気多けた郡四ヵ所の一(「在方諸事控」など)。拝領高は二七七石余、本免は五ツ三分。湯運上二〇〇匁が課せられていた(藩史)

湯村
ゆむら

[現在地名]木次町湯村

北流する斐伊川上流が西から北に向きを変える右岸に位置し、北は西日登にしひのぼり村、東は槻屋つきのや村。正保国絵図に村名がみえる。慶安三年(一六五〇)の三沢之内湯村検地帳によると、田方一八町七反余・分米二四四石余、畑方一〇町八反余・分米七七石余、屋敷数は引当六・御役目屋敷二一。元禄十年出雲国郷帳では高三八六石余、寛文四年(一六六四)の本田高三八六石余。

湯村
ゆむら

[現在地名]山田村湯

現町域の北部、山田川右岸に立地する。東方の高瀬たかせ峠を越えると高瀬村(現八尾町)に至る。江戸時代初期には湯谷ゆだに村と称し、享保二〇年(一七三五)に湯村に改めたというが、その後も湯谷は用いられた。山田川が流れる谷間には山田温泉がある。「三州地理志稿」には「一名山田」の注記がある。正保郷帳には湯谷村とみえ、高一二一石余、田方二町・畑方六町一反余。

湯村
ゆむら

[現在地名]大東町中湯石なかゆいし

飛石とびいし村の東、あか川と支流室谷むろたに川が合流する付近に位置する。「出雲国風土記」大原郡条にみえる湯淵ゆぶち村は当村辺りに比定される。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳によると高一五九石余、寛文四年(一六六四)には本田高一五一石余・新田高一斗余。「雲陽大数録」によれば高一二〇石、村内に制札場があった。明治八年(一八七五)飛石村など二ヵ村と合併して中湯石村となる。海潮うしお温泉は風土記の大原郡海潮郷条に「須我小川の湯淵村の川中に温湯あり。

湯村
ゆむら

[現在地名]三朝町三朝

砂原すなわら村の西、三徳みとく川左岸を中心に広がり、倉吉往来(鹿野道)が対岸をほぼ東西に通る。中世には土豪知久間氏がいたという(伯耆民談記)。拝領高二二〇石余。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高二三〇石、竈数三五。大久保おおくぼ大明神(現三朝神社)、薬師堂をあげる。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)では朱高二四〇石余、高二四一石余、うち畑高九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「湯村」の意味・わかりやすい解説

湯村[温泉] (ゆむら)

兵庫県北部,美方郡新温泉町の旧温泉町にある温泉。単純泉,95~98℃。岸田川の支流春来川の渓谷に臨み,三方を山に囲まれた静かな樹林のなかにある。860年(貞観2)慈覚大師が発見したといわれ,古くから土地の人々や山陰道(現,国道9号線)を行く旅人に親しまれてきた。源泉は春来川の河床から湯煙をあげてわき,高温なため,鶏卵の孵化,コイの養殖池,野菜の促成栽培,炊事などに利用されている。源泉の荒湯でゆでた荒湯豆腐が名物料理。付近には正福寺,温泉薬師などがあり,山陰海岸国立公園但馬御火浦香住海岸にも近い。山陰本線浜坂駅からバスが通じる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報