湯本村(読み)ゆもとむら

日本歴史地名大系 「湯本村」の解説

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]秋保町湯元ゆもと

秋保郷の東端、南東へ流下する名取川沿いにあり、南東端で碁石ごいし川が北流して名取川に合流する。西はすもも沢および大倉おおくら山嶺で境野さかいの村、東は大銅おおどう沢で茂庭もにわ(現仙台市)、碁石川で坪沼つぼぬま(現同上)と接する。北は田沢たざわ山嶺で宮城郡上愛子かみあやし村・下愛子村(現宮城町)、南はほとけいわ山嶺で柴田郡小野おの(現川崎町)大狼おいの沢で同郡支倉はせくら(現同上)と接する。名取川沿いに二口ふたくち越出羽道が通り、上・下愛子村を経て仙台へ出る白坂しらさか越が北へ分岐する。同川右岸には「名取御湯」とよばれた秋保温泉があり、二本の山道で南の笹谷ささや街道と結ばれる。寛永元年(一六二四)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に秋保のうち「湯村」とみえ、荒野を開墾して成立した田四町八反・畑五反が開発者秋保雅楽頭(定盛)に下されている。近世初期には湯本村と記され(正保郷帳など)、後期から湯元村が慣用化する。村名は温泉の四方に境を建て村としたことによるという(寛延四年「那波青陽書秋保温泉由来記」佐藤勘三郎家文書)

正保郷帳では田方二六貫三七二文・畑方一四貫八九〇文、柴山と注され、ほかに新田二貫一七二文とある。検地は元和四年(一六一八)、寛永一九年、享保一五年(一七三〇)に行われ、享保検地で九貫文余が打出され、以後五六貫九〇六文の村高で固定した(寛政年間「免租地及び出湯につき下問」佐藤勘三郎家文書)

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]箱根町湯本

箱根山の東麓、村の西ではや川が須雲すくも川を合して北東に流れ、東は入立田いりゆうだ(現小田原市)、西は湯本茶屋ゆもとちやや塔之沢とうのさわと接し、須雲川沿いに東海道、早川沿いに箱根七湯はこねななゆ道が通る。

仁治三年(一二四二)の「東関紀行」に「箱根の山にもつきにけり、(中略)この山も越えおりて、湯本といふ所に泊りたれば、みやまおろし烈しくうちしぐれて、谷川みなぎりまさり、岩瀬の波たかくむせぶ」とある。奈良西大さいだい寺叡尊も弘長二年(一二六二)関東下向の際に当地で中食をとっており(関東往還記)、また「経覚私要鈔」応仁二年(一四六八)末条の「自京都至鎌倉宿次第」に「湯本ゆもと五十丁」とあるなど、中世の箱根越・箱根権現参詣道であった湯坂ゆさか路の起点として宿場が形成されていた。文亀二年(一五〇二)連歌師宗祇は、駿河に向かう途中当地で没している(宗祇終焉記)。また年未詳一〇月二日の修理亮宛上杉清方書状写(県史三)に「大蔵稲荷社修理并相州湯本関所事、如元当社関務之趣、可有御成敗候」とあり、室町初期には湯本に関所が設置されていた。

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]いわき市常磐じようばん湯本町ゆもとまち

湯本川上流部にあり、南はせき村、南と西は上湯長谷かみゆながや村、東は水野谷みずのや村、北はつづら村・白水しらみず村。古くから温泉地として知られ、「拾遺集」に「あかずしてわかれし人のすむさとはさはこの見ゆる山のあなたか」とあり、三函さばこ(三箱湯・佐波古湯)といわれ、三箱さばこは地名としても用いられた。建武三年(一三三六)四月一〇日の石川貞光軍忠状(色川本岩城文書抄出)に「右今年四月六日、東海道湯本広橋修理亮構城槨、楯籠之間」とみえ、南朝側の広橋修理亮のいる湯本城を石河入道光念らが攻撃している。翌四年正月一六日の伊賀盛光代麻続盛清軍忠状(飯野八幡宮文書)によれば、同月一五日盛清は「菊田庄滝尻城搦手」で戦い、その日のうちに「湯本館」に向かう途中「於西郷長間子、馳合」った湯本少輔房を生捕っている。

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]湯原町湯本

湯原温泉の中心地域で、旭川左岸に古くから町筋をつくった温泉郷。北・東は田羽根たばね村、南は下湯原村、旭川対岸西方は向湯原むこうゆばら村。江戸時代、伯耆往来(犬挟峠越)が通り、宿駅が置かれた。釘貫小川くぎぬきこがわ宿へ一里、下長田しもながた(現八束村)の問屋場へ三里(作陽誌)。荷物問屋があり、伯耆倉吉くらよし(現鳥取県倉吉市)からの銑・絣木綿類は、下長田村の問屋を経て当地へ継送られ、釘貫小川宿へと継立てた。慶長一七年(一六一二)の森忠政覚書(美作古簡集)によれば湯本村の年貢三五石の上納が惣兵衛にゆだねられていた。正保郷帳によれば田高一五石余・畑高一一石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高九石余・開高九斗余、元禄初頭の家数三四・人数二一四(作陽誌)

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]天栄村湯本

田良尾たらお村の西、奥羽山脈中の山間に立地。集落は西流する鶴沼つるぬま川が形成する河谷にあり、同川沿いに田良尾村から田島たじま(現田島町)へ至る道が通る。村名は居平いだいらから湧出する温泉(湯本温泉)の湯元に由来すると伝える。湯本温泉は弘仁九年(八一八)嵯峨天皇の夢見により発見され、鎮守として温泉おんせん八幡宮(現温泉八幡神社)を奉祭したと伝える(文化九年「温泉宮旗勧化帳」天栄村史)

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]那須町湯本

那須岳の南東麓に位置する。那須湯本村とも称した。近世は黒羽藩領。元禄郷帳に村名がみえ、高二二石余。江戸時代以前より、湯本(鹿の湯)をはじめとする那須温泉の湯治場として集落が形成されていたと考えられ、文化年間(一八〇四―一八)の家数五二(「創垂可継」封域郷村誌巻二)。安政五年(一八五八)の集中豪雨により、流失家屋一三・死者一八を記録、村民は藩に願出て、川右岸の高台に移転(那須町誌)、これが現在の温泉旅館街の母胎となったという。

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]男鹿市北浦湯本きたうらゆもと

男鹿半島北西部、標高約五〇メートルの台地上に位置し、日本海に北面する。しり川が台地を複雑に切り刻み、川口には支郷湯尻ゆのしり村がある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に湯本村六三石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高七二石三斗二升三合とある。同一五年の「六郡郡邑記」には家数九軒とあり、支郷湯尻村は八軒であったが、嘉永期(一八四八―五四)には三五軒となる(絹篩)

村名の由来ともなっている温泉の発見および集落の誕生は定かでないが、妙見みようけん堂(現星辻ほしつじ神社)の建立の時期を下るまい。元和五年(一六一九)船越ふなこし水道に橋を架けようとした修験常楽院は湯本在住であった(梅津政景日記)

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]花巻市湯本

二枚橋にまいばし村の西にあり南東部に平地が開ける。西はだい村。室町―戦国期には稗貫氏家臣湯本氏の本拠地であったと伝える。永享七―八年(一四三五―三六)のいわゆる和賀稗貫二郡の大乱において、「奥南盛風記」では十八さかりヶ城に立籠った軍勢として「湯本」の名が載る。慶長五年(一六〇〇)の南部利直知行宛行状(秋田県立図書館蔵)に村名がみえ、当地のうち「亀屋敷主計ひかへの分」二二石余などが本地不足分として冨沢幽斎に与えられた。

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]会津若松市東山町湯本ひがしやままちゆもと

川上流にあり、北西は院内いんない村、南の上流は河渓かわたに村。温泉が多く出るための村名という。北に箕輪みのわ山・羽黒山が連なり、南は湯川が流れ、山水の景に優れている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の大沼郡内に村名があり、高二四石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高七六石余。化政期の家数二三(新編会津風土記)

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]松之山町湯本

越道こえどう川支流左岸に位置し、南は天水島あまみずしま村・天水越あまみずこし村。寺石てらいし(現中魚沼郡津南町)から当村を抜け、峠を越えて浦田口うらだぐち村へ通じる道は中世から近世初頭にかけて盛んに利用された。かみ湯ユ(上湯本)・湯本(下湯)の集落からなり、当初は上湯地区に集落があったが、湯本の温泉場に近世初期に湯小屋が建てられ、中期頃には旅人宿もできたと思われる。正保国絵図に高六石余。天和三年郷帳では高一六石三斗余、反別田一町余・畑屋敷四反余・山林一反余・青苧畑三反余で、家数八。

湯本村
ゆもとむら

[現在地名]美里町白石しろいし

大仏だいぶつ村の枝郷。松久まつひさ丘陵に囲まれ、村域を天神てんじん川が東流する。東から南は猪俣いのまた村、西は白石村、北は中里なかざと村。大仏村から分村し、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳に初めて大仏村枝郷として村名がみえ、高一二三石余、旗本成瀬領(幕末に至ったとみられる)。「風土記稿」では家数三七。当村の名主を勤めた福島家出身の福島柳圃は、江戸時代末から明治二〇年代にかけて活躍した画家で、嘉永二年(一八四九)三〇歳のときに当村で雅会として書画詩俳諧挿花会を開催。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報