温泉郷(読み)ゆのごう

日本歴史地名大系 「温泉郷」の解説

温泉郷
ゆのごう

大家おおえ庄の単位所領。現温泉津町北部の温泉津・湯里ゆさと西田にした飯原はんばら一帯に比定される。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に「温泉郷」とみえ、藤原(益田)兼栄・兼高父子の所領として安堵されている。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文には大家庄のうちとして「ゆのかう 八丁四反半」とみえる。当郷は益田氏が古代の湯泉郷を開発するなどして石見国衙からその領有権を認められ(国衙領温泉郷の成立)、のち大家庄成立によって大家庄温泉郷が成立したものと考えられる。その後の伝領関係は明確でないが、益田兼栄・同兼高のあと益田氏庶流が温泉氏を称して伝領したのではないかと推測される。文安元年(一四四四)頃、大内氏料所に組込まれた大家庄西郷のうち井尻いじり村が一時温泉次郎に宛行われている(同年一〇月五日「大内氏奉行人連署奉書」閥閲録)

温泉郷
ゆごう

和名抄」所載の郷。同書高山寺本・東急本に「由」の訓がある。郷名は温泉の湧出に由来。初見は平城宮跡出土木簡で、「但馬国二方郡温泉」とある。また日高ひだか町の但馬国分寺跡出土木簡に「二方郡温泉郷五戸私庭足四斗六升」とある。同所から天平神護三年(七六七)年紀をもつ木簡が出土している。長寛三年(一一六五)六月日の阿闍梨聖顕寄進状(高山寺文書)によると、「温泉郷竹田・寺木村」は平季盛の相伝私領で、保延五年(一一三九)息季広に譲渡。

温泉郷
ゆごう

「和名抄」東急本は「箸入」の次に置く。東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「由」と訓を付し、「佐々軍記」所引の「温泉記」に延暦九年(七九〇)に山鹿郡平山ひらやまに温泉出ずとあるとして現山鹿市平山温泉の地をあて、「海東諸国紀」にみえる「肥后州温泉郡」も同じくこれにあてる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報