深谷城跡(読み)ふかやじようあと

日本歴史地名大系 「深谷城跡」の解説

深谷城跡
ふかやじようあと

[現在地名]深谷市仲町・本住町・田谷

妻沼めぬま低地の南端部に位置する深谷上杉氏の居城跡。県指定旧跡。現在の市街地北側にあたり、標高約三五メートル。北および西には低湿地が広がり、東を唐沢からさわ川が北流する。総面積は約一九・八ヘクタールで、本丸を中心に土塁や水堀などによって輪郭式の縄張りが施され、その平面形が木瓜の花または実の断面に似ていることから木瓜ぼけ城ともよばれた。関東管領山内上杉憲顕の子憲英は庁鼻和こばなわ城を居城として庁鼻和上杉氏を称し、享徳の乱中の康正二年(一四五六)に四代房憲が深谷に築城した(鎌倉大草紙)。これは古河公方足利成氏に対する防衛を目的とするもので、五十子いかつこ(現本庄市)設営と密接な関係にあった。房憲は深谷上杉氏を称し、以降憲清―憲賢―憲盛―氏憲と続き、憲賢の代までは山内上杉氏の武蔵における有力な支持者であった。しかし憲盛の時に小田原北条氏に属し、永禄三年(一五六〇)長尾景虎(上杉謙信)の関東攻めののちはこれに従った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報