深谷宿(読み)ふかやしゆく

日本歴史地名大系 「深谷宿」の解説

深谷宿
ふかやしゆく

[現在地名]深谷市仲町なかちよう本住町もとすみちよう稲荷町いなりちよう一―二丁目・深谷町・深谷・寿町ことぶきちよう

現深谷市の中央部西寄りに位置する中山道の宿村。江戸日本橋から九番目の宿にあたり、八番熊谷宿と一〇番本庄宿の間にある。深谷領に所属(風土記稿)櫛挽くしびき台地の北端から利根川沖積低地へ移行する付近にあたり、東は幡羅はらはらごう村、西は萱場かやば村、南は西島にしじま村、北は田谷たや村・東大沼ひがしおおぬま村。東部を北流する唐沢からさわ川が台地下に深い谷を刻んでいるのが地名の由来とされる。分間延絵図によると、東西に延びる中山道は東の宿入口から稲荷町に入り、しも町との境の唐沢川に架かる行人ぎようにん橋を渡り、高札場のある仲町からよこ町・たつ町を経て西島村地内の当宿町続きの新田しんでん町に続いている。横町からは北へ向かって上州世良田せらだ(現群馬県尾島町)への中瀬河岸なかぜがし(世良田道)、南へ向かって秩父道(寄居道)が延びる。

〔中世〕

現千葉県夷隅いすみ行元ぎようげん寺が所蔵する正徳三年(一七一三)の秘密灌頂私記奥書写によると、元本は延文元年(一三五六)八月二五日に「深谷安養寺住僧尊賢」が世良田長楽ちようらく寺において書写したものという。国済こくさい寺旧蔵の応永年中(一三九四―一四二八)の梵鐘銘には「幡羅郡深谷庄常興山国済禅寺」とみえ(新編埼玉県史)、当時の深谷は幡羅郡に所属していた可能性もある。「長倉追罰記」によると、永享七年(一四三五)深谷勢などが鎌倉公方足利持氏に従い常陸の長倉義成を攻めている。その頃、当地一帯は庁鼻和上杉氏の支配下に置かれ、康正二年(一四五六)に古河公方足利成氏との合戦に備えて上杉房憲が深谷城を築いた(鎌倉大草紙)。以後深谷上杉氏の領地となるが、戦国争乱期には深谷周辺は有力武将が勢力を競い、その帰属がしばしば替った。永禄八年(一五六五)三月二三日北条氏康は布施田山城守の深谷表での戦功を賞し、大里郡内で五〇〇貫文の地を宛行っている(「北条氏康判物写」風土記稿)。同一〇年一一月には上杉輝虎(謙信)軍が上野高山たかやま(現群馬県藤岡市)から深谷近辺にかけて放火しており(同月一〇日「上杉輝虎書状写」富岡家古文書)、付近一帯はしばしば戦場となっている。

〔近世〕

天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、松平(長沢)康直が深谷城主に迎えられ一万石を領した(三千石以上分限帳「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の深谷宿の言及

【深谷[市]】より

…明治・大正期の実業家渋沢栄一の出身地で,生地の渋沢国際会館(1983年オープン)は全寮制の日本語学習の場で,付近には渋沢栄一記念館もある。【新井 寿郎】
[深谷宿]
 中山道,武蔵国の宿駅。地名の初見は1356年(正平11∥延文1)の〈秘密灌頂私記〉奥書。…

※「深谷宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android