深津村(読み)ふかづむら

日本歴史地名大系 「深津村」の解説

深津村
ふかづむら

[現在地名]粕川村深津

現粕川村の南端、粕川右岸に位置し、東は粕川を挟んで西野にしの(現佐波郡赤堀町)、西は西大室にしおおむろ(現前橋市)込皆戸こみがいと村、南は今井いまい(赤堀町)、北は女淵おなぶち村。「和名抄勢多郡深渠ふかむそ郷があり、深津の古名といわれる。深渠が深須・深栖に転じ、さらに深津となったと考えられている(ただし深田郷を当地に当てる説もある)。「平家物語」巻四(橋合戦)に「大胡・大室・深須・山上、那波太郎」と近隣の豪族とともに深須が出てくる。「源平盛衰記」(宇治合戦頼政最後の事)にも新田入道義重の一門として「ふかず」がみえる。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝入洛の行列に従った御家人の中に深栖四郎・深栖太郎がおり(「吾妻鏡」同日条)、同六年頼朝の東大寺供養のための供奉人行列の中にも「深栖みす太郎」がいる(同書同年三月一〇日条)。これら深須・深栖氏は他の人物と合せ考えると、当地名を負うた人物と推定される。赤木文庫本「神道集」第四一(上野国勢多郡鎮守赤城大明神事)には高野辺大将家成が勢多郡深栖郷という山里に流されたとあり、また上野国司が深栖御所に入ったという記述もある。康応元年(一三八九)九月二日の年紀をもつ菩提心論見聞奥書(叡山文庫天海蔵)には深巣という表記がみえる。

当地は室町中期以降たびたび戦場となった。享徳四年(一四五五)二月二七日の岩松持国宛足利成氏書状写(正木文書)は、深須や赤堀あかぼり(現赤堀町)大胡おおごでの転戦をねぎらい、跡のことを申付けている。この享徳の乱にかかわる三月三日の足利成氏感状写および年月日不明赤堀政綱軍忠状写(赤堀文書)によると、康正二年(一四五六)二月二六日政綱の父時綱は深栖(深巣)の戦いで討死した。長享二年(一四八八)五月二一日の長尾定明書状(同文書)では橋江掃部助跡の深巣郷などが上杉顕定方の赤堀上野介に宛行われている。下って天正二年(一五七四)三月一〇日の北条高広書状(鶏足寺文書)に「赤堀・善・山上・女淵属御手、今日深津之地へ御馬を被進候」とあり、当地に上杉謙信勢が侵攻している。

深津村
ふかつむら

[現在地名]福山市東深津ひがしふかつ町・西深津にしふかつ町・王子おうじ町一―二丁目・入船いりふね町三丁目

福山城下の東方、深津高地に位置する。深津はその名称の示すように、深く入込んだ津を意味し、古くは現在の深津高地は深く湾入した福山湾内に突出した半島状の丘であり、蔵王ざおう山塊の山麓に良港を形成していたと考えられる。「万葉集」巻一一に

<資料は省略されています>

の歌があり、この深津島山は深津高地をさすとされる。少なくとも平安時代には深津高地の両側に遠浅の海岸が形成され人家が存在したことは、平安時代から中世にかけて使用された須恵器や土師器、中世の土器、中国より輸入された磁器を含む貝塚が点在することでも知られる。戦国時代には深津高地南端の王子山おうじやま城に長尾主計頭が居城(備後古城記)、将軍足利義昭が毛利氏を頼ってともに来寓した時、「深津と申所に御館を作り五千石の知行を付させ給」(室町殿日記)と当地に一時住したと伝える。

深津村
ふかづむら

[現在地名]鹿沼市深津・さつきちよう

武子たけし川の右岸に位置。同川は北の白桑田しらくわだ村との境を南東に流れる。東は河内かわち上欠下かみかけした(現宇都宮市)、南は上石川かみいしかわ村。村内を武子川の分流が本流に並行して流れる。慶安郷帳に村名がみえ、田二九二石余・畑一五〇石余、宇都宮藩領。なお輪王寺本には深須村とみえる。寛文一〇年(一六七〇)の宇都宮領分松平下総守高邨(大野政吉文書)によれば高六九九石余。貞享三年(一六八六)幕府領となった(「願書」伊沢新右衛門文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報