深川村(読み)ふかがわむら

日本歴史地名大系 「深川村」の解説

深川村
ふかがわむら

[現在地名]深川市一条いちじよう二条にじよう三条さんじよう四条よじよう五条ごじよう六条ろくじよう七条ななじよう八条はちじよう緑町みどりまち西町にしまち文光町ぶんこうちよう錦町にしきまち太子町たいしまち新光町しんこうちよう一―三丁目・深川町ふかがわちよう字メム・深川町字オーホ・深川町字妹背牛もせうし・深川町字秩父別ちつぷべつ・深川町字大鳳おおほう・深川町字一已いちやん開西町かいせいちよう一―三丁目・錦町北にしきまちきた錦町西にしきまちにし雨竜うりゆう妹背牛もせうし町字妹背牛、秩父別ちつぷべつ町字秩父別など、空知郡幌加内ほろかない町字幌加内など

明治二五年(一八九二)から大正七年(一九一八)まで存続した雨竜郡の村。明治三〇年頃は東は南一已屯田兵村、北は東秩父別屯田兵村西秩父別屯田兵村(現秩父別町)で、南を石狩川、西を雨竜川が流れる。またほぼ中央を大鳳おおほう川が西流して雨竜川に合流し、メム川は南部を蛇行しながら下メムで石狩川に合流する。メムは天保郷帳にイシカリ持場のうちとしてみえ、「戊午日誌」(登加智留宇知之誌)に「メムとは水溜りの事也。此川口も五尺計」とある。市街地にはニウシベツ川が流れ、「丁巳日誌」(再石狩日誌)に「ニウシベツ (左)の方小川。流れ木多く寄りたり。依て号り。ニは木、ウシは多し、ベツは川也。しばし上りて右の方に夷家弐軒」とある。

深川村
ふかわむら

[現在地名]長門市東深川ひがしふかわ西深川にしふかわ深川湯本ふかわゆもと

北は深川湾に面し、南方一帯は山地で、西は日置へき(現大津郡日置町)、南西は俵山たわらやま村、南東は渋木しぶき村に囲まれた大村。深川川を境に村内を東深川村・西深川村に二分、さらに川上の谷間の湯本を中心に深川湯本村とよび、三庄屋が支配した。前大津宰判に所属する。

「和名抄」所載の深川郷域に属し、中世は三条家の荘園であった深川庄域であった。

慶長一五年(一六一〇)の検地帳でも「深川庄」とあり、総石高三千一七石余、うち田が二四一町余で二千六六八石余、畠が三四町余で一二八石余、百姓屋敷二一五のほかに市屋敷三一で一七石余、浦屋敷一二で五石余、浦浮役二五石余、小物成五七石余と記される。「地下上申」では総高四千七四六石余、うち二千四八四石余が一門家老の宍戸・毛利両家ほか一〇氏の入組知行。湯本・本郷ほんごう・三ノ瀬・四ノ瀬・正明市しようみよういちなどが蔵入地であった。

「注進案」では「当村の儀は湯本村を上御蔵入と唱、正明辺を下御蔵入と唱、又諸給領を一括りにして三存内に相成居候故、三括りに可相調儀に御座候へ共、元来往古より深河村一括の所にて御座候を、追々に存内を分候物故、土地甚入交り三括りに仕候ては山川形勢物境」が書きにくいとして深川村一村でまとめている。

深川村
ふかわむら

[現在地名]甲南町深川

葛木かずらぎ村の北西、そま川右岸に位置。村の東は丘陵で、集落は西の平地に発達。杣街道が通る。文明二年(一四七〇)正月一九日の望月弥次郎宛の山内政勝宛行状(望月文書)に「杣庄内龍法師并野田深川」とみえる。伝えによると深川宿禰が当地を開き、中世には片山・鵜飼・田中・利田各氏らがいて、矢川やがわ神社を中心に一村をなしていたが、元亀(一五七〇―七三)の頃森尻もりしり村、市場いちば(深川市場)村、虫生野むしようの(現水口町)などが分立したという。鵜飼氏の城跡が字片山かたやまにあり、城山しろやま射場いばだになどの地名が残る。寛永石高帳では幕府領、旗本山岡領・美濃部領の三給。天和二年(一六八二)幕府領・山岡領分が水口藩領となる。天明村高帳では水口藩領五七〇石余・美濃部領一四二石余。

深川村
ふかがわむら

[現在地名]末吉町深川

諏訪方すわかた村の北に位置する。大淀おおよど川の左岸にあり、都城盆地の周辺部に形成される。末吉郷七ヵ村の一つで、慶長(一五九六―一六一五)以前は村山むらやま村と柳井田やないだ村および鶴木つるき村に分れていたという。文禄五年(一五九六)一月二〇日の島津忠恒加増目録(旧記雑録)に「庄内末吉深川村」とみえ、村内の三三九石余を含む五〇〇石が源七郎に与えられている。慶長五年にも同様の加増が確認されているが、同じく村内の高七六石余などが本田氏に加増されている(「島津忠長外三名連署加増目録」同書など)。同七年には村内の「徳富之門」の高一〇〇石が霧島山普門ふもん(現霧島町か)に寄進されている(「島津忠長外三名連署証状」同書)。同二〇年には村内一四七石余が霧島山座主坊に与えられている(「町田久幸外三名連署知行目録」霧島神宮文書)

深川村
ふかがわむら

[現在地名]錦町大字深川

玖珂郡北部に位置し、須川すがわ村の南西、黒沢くろざわ(現本郷村)の西方に位置する山村。村内中央を錦川の支流宇佐うさ川が貫流する。萩藩領奥山代宰判所属。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「深川畑 刀禰深川杢之允宰判」とみえる。弘治四年(一五五八)六月一一日付の毛利隆元の兼重弥三郎宛知行宛行状(「閥閲録」所収兼重五郎兵衛家文書)に「山代八ケ之内本郷深川両所代官之事申付候」とあり、これは永禄一一年(一五六八)三月六日付の毛利輝元の兼重千鶴丸宛知行宛行状でも確認できる。

深川村
ふかがわむら

[現在地名]余目町深川

杉浦すぎのうら村の北にある。開村は文明年間(一四六九―八七)と伝えられる。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に村名がみえ、高一〇石余。寛永元年庄内高辻帳では高一二〇石余。支配領主の変遷は廿六木とどろき村と同じ。享保八年(一七二三)の村明細帳(深川区有文書)によれば、高一一七石余、田五町六反余・畑六町五反余、新田高二石余・田二反余、谷地一ヵ所、郷蔵一がある。

深川村
ふかがわむら

[現在地名]菊池市深川

菊池川右岸の沖積地に位置し、北は大琳寺だいりんじ村、東は北宮きたみや村、西は西寺にしでら村に接する。南は菊池川によって画される。菊池氏初代といわれる藤原則隆が本拠を構えた地と伝えられ、北宮村との境界近くにその居館跡とされるきくいけ(深川城)跡がある。

天正一七年(一五八九)の検地帳に田一一町五反三畝余・畠二七町二反一畝余、分米三四五石六斗余とあり、慶長九年(一六〇四)九月の検地帳でもほぼ同高。

深川村
ふかがわむら

[現在地名]会津若松市神指町南四合こうざしまちみなみしごう

阿賀川(大川)東岸にあり、北は鍛冶屋敷かじやしき村、南は幕内まくのうち村、東は西柳原にしやなぎわら村。幕内村から飯寺にいでら堰が流れて田地に注ぐ。蘆名直盛が会津に下向した際、大川の渡場を渡った時に川が深かったことから村名が起こったと伝え、輿を止めた所に祀ったのが伊佐須美いさすみ神社という。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では門田もんでん郡に村名があり、高一四四石余。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高二〇九石余。

深川村
ふかがわむら

[現在地名]黒石市ふくろ 毛内もうない

温湯ぬるゆ村の対岸、袋村の西方にあたり、毛内ともいう。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字にある「馬音内まうない」は、深川村西方の六万平ろくまんたいの麓にあった村で、この村が滅んだ後、袋の近くに深川村ができたという(黒石地方誌)。六万平には毛内館跡がある。館主は千葉氏で、天正一三年(一五八五)宇杭野うぐいの合戦の浅瀬石あせいし方の勇士中に毛内豊後の名がみえる(津軽一統志)

深川村
ふかがわむら

[現在地名]水俣市深川

水俣川中流、石神いしがみ村から南流する内野うちの川が水俣川に合流する所にあり、水俣川上流に桜野さくらの村、下流に気子けご村・渡野わたりの村がある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳に「水俣内深河村」とあり、田畠高一千一一五石八斗余とあり、屋敷数六二、男一三九・女一五八、牛一六・馬三二が記されるが、これは中鶴なかづる村・気子村・深渡瀬ふかわたぜ村・宝河内ほうがわち村も含んだ数字である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報