浜川(読み)はまかわ

日本歴史地名大系 「浜川」の解説

浜川
はまかわ

福山城の築城と城下町形成の際、福山湾を埋立てて造成したので、外堀は海水を引入れ、入江で海に通じた。この入江を俗に浜川とよんだ。造成当時は現在の河口手城てしろ川口かわぐち新涯はまだ埋立てられていなかったので入江の距離は短く、満潮になると城の外堀も水位を増し、大船が出入りし、鯔などの海魚が遊泳した。左義長の音頭にも「前はお堀で、チョイトぼらが棲む」とはやされている。

入江には北にほん橋、南にしん橋を架した。本橋は京都伏見城から移した擬宝珠付の欄干をもった橋だったので、太閤殿下の橋の意で天下てんか橋とよび、新橋は水野氏四代の勝種の時架橋され、ここのたもとに木綿の市が立ち、丈尺改方が居住していたので木綿もめん橋と称した。

浜川
はまがわ

多良たら岳北方の水を集めて鹿島市古枝ふるえだ・浜町を通り有明海に注ぐ。「鹿島志」は、岸に桃樹が連なり「錦浪川」と名付けられたと記す。

また「藤津郡村誌」には「深処干潮五尺 浅処二尺 広処十八間 狭処十三間 舟筏を通する所五丁 其質清淡なりと雖も潮水干満するに依り下流は濁鹹なり 水源山浦村の片木山より発し諸流を合せ村の西方古枝村より来り北流して有明海に注ぐ 長さ十九丁余」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報