津田島(読み)つだじま

日本歴史地名大系 「津田島」の解説

津田島
つだじま

鎌倉時代初期に成立していた国衙領。現津田地区一帯に比定される。元久元年(一二〇四)南助任みなみすけとう保とともに立庄され、奈良春日社領富田とみだ庄の一部となった。以西いさい郡のうちとする史料もある。立庄の過程で作成された建仁三年(一二〇三)一一月日の春日社政所下文案(春日大社文書)には「阿波国名東郡南助任并津田嶋百姓住人等所」とみえ、南助任・津田島が領主左兵衛少尉大江泰兼から春日社に寄進されたとある。領域は、同四年二月一七日の官宣旨案(同文書)に「在管(以カ)西郡内 壱処字津田嶋」の四至として「東限途中 南限勝(浦カ)庄堺 西限南助任堺 北限南助任南堺」とある。この四至記載ではあたかも勝浦かつうら庄と南助任保陸地で接していたかのような記述であるが、当地は島とよばれ、元久元年九月日の富田庄立券状案(同文書)では西隣にあった南助任村の東の堺は「津田西江并北海」となっていることから、勝浦庄および南助任保との間には川あるいは江があって、陸地続きではなかったとみるべきであろう。また当地は「当国住人前右兵衛少尉藤原親家・前右近衛将監粟田重政」から泰兼に譲られており(前掲官宣旨案)、この両名が開発領主であった。承久四年(一二二二)三月日の大江泰兼愁状(大東家旧蔵文書)にも「当国南助任保并津田嶋者、同国住人藤原親家并粟田重政相伝私領也、而各有事縁、泰兼令伝領」とみえている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報