法楽寺村(読み)ほうらくじむら

日本歴史地名大系 「法楽寺村」の解説

法楽寺村
ほうらくじむら

[現在地名]浅井町法楽寺

北池きたいけ村の北に位置。保楽寺とも記し、「輿地志略」によれば、かつて下草野しもくさの五山の一であった同名の寺があったといい、法楽寺石塔銘(東浅井郡志)に「天文十五年丙午二月二十日」とある。寛永石高帳には高一八〇石余とあり、うち幕府領が一一八石余、小堀遠州領(幕府領か)が五七石、旗本小堀正十領が四石余。四石余は以後、天明期(一七八一―八九)まで同家に伝えられ(天明村高帳)、文政期(一八一八―三〇)には幕府領となるが(文政石高帳)、天保八年郷帳では再び同家領となっている。ほかは元禄郷帳では大和郡山藩・小室藩の相給、天明村高帳では一二〇石余が郡山藩領(以後幕末まで同藩領)で、六三石余が小室藩領。

法楽寺村
ほうらくじむら

[現在地名]小矢部市法楽寺

中野なかの村の北、子撫こなで川左岸平地と稲葉いなば山南麓丘陵に立地。寺院法楽寺が所在したことからの村名という(越中志徴)。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数八、桜町組に属する。正保郷帳では高二八八石余、田方一五町四反余・畑方三町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二九七石・免六ツ五歩、小物成は山役一五五匁(三箇国高物成帳)。所属組は坂又さかまた村に同じ。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)によれば、元禄八年(一六九五)の検地引高六〇石、一方その後の手上高一四石余があり高二五一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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