沼島浦(読み)ぬしまうら

日本歴史地名大系 「沼島浦」の解説

沼島浦
ぬしまうら

[現在地名]南淡町沼島

土生はぶ村の沖、南東四キロの海上にあり、全体が結晶岩からなる周囲約一〇キロの離島。貞応二年(一二二三)淡路国大田文に得長寿とくちようじゆ(現京都市左京区)と山城石清水いわしみず八幡宮領の阿万あま庄のうちとして「沼島三町」とみえる。暦応三年(一三四〇)後村上天皇の命で伊予に下向するため田辺たなべ宿(現和歌山県田辺市)から武島(沼島か)に到着した脇屋義助を、近隣の安間・志知・小笠原一族らが備前児島こじま(現岡山県)まで送り届けたという(「太平記」巻二二)。南朝の後村上天皇は救援を命じた沼島を差しおいて、小山一族中に小豆しようど(現香川県)に来襲した凶徒討伐を命じている(年未詳六月三日「後村上天皇綸旨」小山文書)。観応元年(一三五〇)六月三日、足利義詮は「沼島以下」の海賊退治を安宅一族に命じている(「足利義詮軍勢催促状」安宅文書)。当地を根拠にした沼島海賊が南朝方を支えていた。大永元年(一五二一)将軍足利義稙が京都を出奔、将軍を廃せられ武島に滞在し島公方とよばれたが、同三年阿波の撫養むや(現徳島県鳴門市)に渡って没したという(「足利季世記」など)。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録に「ぬしま」がみえ三〇石二斗、羽柴秀吉の蔵入地となっていた。正保国絵図では沼島浦とあり、高一〇〇石。天保郷帳では高二七四石余。油谷組に属した。反別戸数取調書によると反別三二町一反余、高二五〇石余、蔵入高は二八四石余。一石余は御茶屋経費に、三九石余は加子屋敷支配とし、五畝余(四斗余)が八幡社領になっていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報