河本・河本郷(読み)かわもと・かわもとごう

日本歴史地名大系 「河本・河本郷」の解説

河本・河本郷
かわもと・かわもとごう

江川の中流域、現川本町を中心とした地域に比定されるが、時代によって領域に変化があったようである。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に「河本久富」とみえ、石見国在庁官人の藤原(御神本)兼栄・同兼高父子に安堵された所領の一つであった。建仁三年(一二〇三)一二月日の藤原兼季申文案(同文書)にも、父権介兼恒からの相伝所領「国方」一五ヵ所のうちに河本がみえる。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文には「かわもと同ひさとみ 河本のよし 十一丁二反百八十卜」とみえる。「かわもと」「河本のよし」の記載は同注文執筆後の追記である。また「同」は「か(は)への」を受けて川辺久富と記された可能性があり、平安末期から鎌倉初期に川辺久富と称された所領がのちに河本郷とよばれるようになったと考えられる。建武四年(一三三七)七月二六日の小笠原貞宗代桑原家兼軍忠状(庵原家文書)には信濃国守護であった小笠原貞宗が「河本郷一方地頭」としてみえ、同月一二日その代官桑原家兼は小笠原又太郎長氏とともに北朝方として石見国内の河上孫三郎入道の城を攻めている。明確な史料を欠くが、この時期には河本郷地頭職は分割されており、おそらく一方を惣領家であった貞宗が代官を派遣して支配し、もう一方を庶子家の長氏が支配していたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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