小笠原貞宗(読み)おがさわらさだむね

精選版 日本国語大辞典 「小笠原貞宗」の意味・読み・例文・類語

おがさわら‐さだむね【小笠原貞宗】

南北朝時代武将信濃守護騎射に秀でたため、後世弓術および小笠原礼式の大成者とされた。法名泰山正宗。正応四~貞和三年(一二九一‐一三四七

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デジタル大辞泉 「小笠原貞宗」の意味・読み・例文・類語

おがさわら‐さだむね〔をがさはら‐〕【小笠原貞宗】

[1294~1347]鎌倉末・南北朝時代の武将。元弘の変足利尊氏に従って功をたて、信濃の守護となった。騎射・故実に通じ武家礼節の祖といわれる。

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朝日日本歴史人物事典 「小笠原貞宗」の解説

小笠原貞宗

没年:貞和3/正平2.5.26(1347.7.5)
生年:正応5.4.12(1292.4.30)
南北朝時代の武将。宗長と赤沢政常の娘の子。生年を永仁2(1294)年とする説もある。幼名豊松丸,通称彦五郎。右馬助,治部大輔,信濃守。後醍醐天皇の討幕計画による元弘1(1331)年の元弘の変では,足利義詮 に従い鎌倉攻めに加わったが,その功により建武政権下で信濃守護職に補任される。建武2(1335)年7月,幕府方が再興を図って兵を挙げると(中先代の乱),守護として信濃の北条与党の鎮圧に当たった。11月に足利尊氏が新田義貞を攻め破るとこれに従い,翌年,山門の戦いで近江に出陣,越前の金崎城をも攻略している。暦応1/延元3(1338)年には美濃青原で北畠顕家軍と戦い,康永1/興国3(1342)年には常陸大宝城に北畠親房を攻めるなど幅広い活躍をした。建武2年に安曇郡住吉荘を,貞和3/正平2(1347)年には近府春近領を得て勢力を伊那郡から信濃中央部へと拡大し,居館も建武年間(1334~38)に松尾(長野県飯田市)から井川(松本市)に移し,信濃の守護家としての小笠原氏の基礎を築いた。射芸騎乗に優れ,しばしば幕府の的始や笠懸,犬追物射手にも名を連ねている。武芸に秀で,礼節を重んじた当代の代表的武将ではあったが,小笠原氏の始祖長清以来の弓馬の道をまとめたとか,有名な小笠原流礼法を完成したとの通説に対しては否定的な見解が強い。<参考文献>「笠系大成」(『信濃史料叢書』12巻),『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』

(笹本正治)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「小笠原貞宗」の意味・わかりやすい解説

小笠原貞宗
おがさわらさだむね
(1294―1347)

鎌倉末~南北朝期の武将。永仁(えいにん)2年4月12日生まれ。父は宗長(むねなが)、母は赤沢伊豆守(いずのかみ)政常の娘。幼名を豊松、長じて彦五郎と称し、のちに従(じゅ)五位下、信濃(しなの)守を名のっている。1331年の元弘(げんこう)の変に際し足利尊氏(あしかがたかうじ)に従って戦功があり、北条氏にかわって信濃(長野県)の守護となった。北条氏残党が蜂起(ほうき)した中先代(なかせんだい)の乱(1335)から南北朝内乱の初期にかけ、尊氏方として各地に転戦して武功をたて、信濃に多くの所領を獲得した。こうして本拠地を甲斐(かい)国(山梨県)から信濃の地に移し、小笠原氏隆盛の基礎をつくった。小笠原一族の嫡流として文武の誉れが高く、騎射の道に優れていた。禅宗に深く帰依(きえ)し、信濃の伊賀良荘(いがらのしょう)(伊那(いな)郡)に名刹(めいさつ)開善(かいぜん)寺を建立した。1347年(正平2・貞和3)5月26日没。法名は開善寺泰山正宗居士。

[湯本軍一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小笠原貞宗」の意味・わかりやすい解説

小笠原貞宗
おがさわらさだむね

[生]正応4(1291).信濃
[没]正平2=貞和3(1347).5.26.
南北朝時代の武将。信濃守護。武家典礼節の祖。宗長の子。名は彦五郎。号は泰山。元弘の変で北条高時に応じたが,のち新田義貞に従い,鎌倉を攻めた。建武2 (1335) 年,北条時行らを討ったが鎮圧できず,次いで義貞に従い,鎌倉に叛した足利尊氏と戦ったが,のち尊氏に帰参。尊氏の九州からの東上に際しては,延暦寺を討ち,また義貞の金崎城を攻めるなど,功を立てた。翌年,北畠顕家の西上を美濃に防戦して大敗した。彼は騎射にすぐれ,故実に通じていた。今川氏,伊勢氏と議し,武家礼節を定め,『三儀一統』を著わした。禅宗を信仰し,信濃に開善寺を建立。 (→小笠原氏 )

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改訂新版 世界大百科事典 「小笠原貞宗」の意味・わかりやすい解説

小笠原貞宗 (おがさわらさだむね)
生没年:1294?-1347(永仁2?-正平2・貞和3)

南北朝時代の武将。右馬助,治部大輔,信濃守。信濃伊那郡松尾に生まれる。父は宗長。元弘の乱では北条高時に応じたが,のち新田義貞に従い鎌倉を攻めた。南北朝内乱期には足利尊氏の麾下(きか)に属し転戦した。建武年間(1334-38)に居館を筑摩郡井川に移し,信濃統一の根拠とした。弓馬の名手で,小笠原流の基礎をきずいた人物と伝承された。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小笠原貞宗」の解説

小笠原貞宗 おがさわら-さだむね

1292-1347 鎌倉-南北朝時代の武将。
正応(しょうおう)5年4月12日生まれ。北条高時に属したが,元弘(げんこう)の乱以来足利氏にしたがい,功により信濃(しなの)(長野県)の守護となる。中先代の乱,南北朝内乱では足利尊氏にしたがい各地を転戦。居館を松尾(飯田市)から井川(松本市)にうつし,信濃支配の基礎をきずく。射芸騎乗にすぐれた。貞和(じょうわ)3=正平(しょうへい)2年5月26日死去。56歳。幼名は豊松丸。通称は彦五郎。著作に「犬追物次第」など。

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367日誕生日大事典 「小笠原貞宗」の解説

小笠原貞宗 (おがさわらさだむね)

生年月日:1292年4月12日
鎌倉時代後期;南北朝時代の武将;信濃守護;小笠原流礼法の祖
1347年没

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世界大百科事典(旧版)内の小笠原貞宗の言及

【小笠原氏】より

…甲斐出身の中・近世の武家。甲斐源氏加賀美遠光の次男長清が,甲斐巨摩郡小笠原(山梨県北巨摩郡明野村と中巨摩郡櫛形町との2説がある)に住んだのに始まる。長清は父とともに源頼朝に従って平家追討に戦功をあげ,遠光は信濃守,長清は信濃国伴野荘地頭に任ぜられた。後に長清は軍功によって阿波の守護職を与えられ,守護職は子の長経を経てその子長房の子孫に伝えられた。長経・長忠の嫡流は武田氏とともに由緒ある御家人として幕府に仕え,とくに騎芸乗馬礼法の家として尊重された。…

※「小笠原貞宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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