日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
河井継之助(かわいつぎのすけ)
かわいつぎのすけ
(1827―1868)
幕末、越後(えちご)(新潟県)長岡藩家老上席、軍事総督。文政(ぶんせい)10年正月、元日長岡城下同心町で、沙門(さもん)良寛(りょうかん)とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀(あきのり)の長男に生まれる。字(あざな)を秋義(あきよし)、蒼竜窟(そうりゅうくつ)と号した。17歳元服の翌年、鶏を裂き、王陽明(おうようめい)を祀(まつ)って立志を誓った。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門(きとうろくざえもん)に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。1853年(嘉永6)江戸に遊学し、斎藤拙堂(せつどう)の門に学び、ついで古賀茶渓(こがさけい)(古賀謹一郎)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山(さくましょうざん)にも師事して海外の事情を学んだ。翌年評定方(ひょうじょうかた)随役に抜擢(ばってき)されたが上司とあわず、まもなく辞し、再度江戸に出た。1859年(安政6)備中(びっちゅう)(岡山県)松山の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年夏帰国した。1865年(慶応1)7月外様吟味役(とざまぎんみやく)、10月郡奉行(こおりぶぎょう)、翌年11月町奉行も兼任。さらに年寄役に累進。この前後、藩制の大改革を断行した。1868年(慶応4)家老上席となり、6月軍事総督として戊辰(ぼしん)戦争における武装中立策を推進したが、政府軍が認めないためこれと激戦。長岡城の攻防で重傷を負い8月16日会津塩沢で没した。行年42歳。
[剣持利夫]
『今泉鐸次郎著『河井継之助伝』復刻版(1980・象山社)』