沖浦(読み)おきうら

日本歴史地名大系 「沖浦」の解説

沖浦
おきうら

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、西能美にしのうみ島の西部にあたる是長これながはたおか大王だいおう付近一帯を総称していった。俗に沖浦四ヵ村とよび、沖村ともいう。弘治元年(一五五五)四月二一日付の毛利元就同隆元連署書状(「閥閲録」所収大多和惣兵衛家文書)に「沖浦」とみえる。江戸時代になると、寛永一五年(一六三八)の安芸国佐西郡西能美島内沖浦大王・岡村地詰帳(「大柿町史」所収)があり、是長・畑・岡・大王の地が「沖浦」一ヵ村として地詰されている。同地詰帳によれば、村高二六一・七九二石で名請百姓一一三人を数え、塩浜八反五畝三歩を二九名の農民が所持していた。

沖浦
おきうら

[現在地名]長浜町沖浦

ひじ川河口、長浜の対岸にある農漁村集落で、古くから櫛生くしゆう村に属していた。寛文七年(一六六七)の「西海巡見志」によると、舟四艘をもち、うち二艘が漁舟であるから、早くから漁業が行われていたのであろう。文化一〇年(一八一三)沖浦の百姓たちが人口増による生活難から、底引網・五智網・釣の特許を願い出て許され、文政(一八一八―三〇)から天保(一八三〇―四四)にかけて対岸長浜と沖浦との網代について協定が成立し、漁業は格段の発展を遂げた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報