江口村(読み)えぐちむら

日本歴史地名大系 「江口村」の解説

江口村
えぐちむら

[現在地名]東淀川区南江口みなみえぐち二―三丁目・北江口きたえぐち一―四丁目・相川あいかわ一―三丁目

淀川と神崎川の分岐点から西へ帯状に延びる村で南北を南・西・北の大道だいどう村錯綜地に挟まれ、西方は大道新家だいどうしんけ村および神崎川に接する。神崎川は当村東端より北流して島下しましも別府べふ(現摂津市)の集落部で安威あい川と合流し、南西に回流して当村西部に至る。神崎川の対岸一津屋ひとつや(現同上)との間に江口渡がある。字地に埋新開・口の浜・沖がある。「日本書紀」推古天皇一六年六月一五日条などにみえる外交使節の発着地の一つ「江口」を当地に比定する説もあるが、近年では現福島区福島一丁目付近とする説が有力。

江口村
えぐちむら

[現在地名]竜洋町豊岡とよおか

掛塚かけつか輪中の北東部に位置する村で、西は吹上ふきあげ村。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に江口とあり高一三九石余。松平忠頼領郷村帳に村名がみえ高一一七石余、田二町一反余・畑一五町五反余、ほかに八幡領三石余・守蔵しゆぞう(現守増寺)領五石。元禄郷帳によれば高一四二石余。江戸時代の領主の変遷は川袋かわぶくろ村に同じ。

江口村
えぐちむら

[現在地名]宗像市江口

田島たしま(現釣川)下流の右岸に位置する村で、さつき松原を挟み玄界灘に面したほぼ平坦な地域。同川の対岸は神湊こうのみなと村と牟田尻むたじり村。江口浦(村)ともよばれた(別本「続風土記附録」など)。小早川時代の指出前之帳では江口村の田二町四反余(分米九石余)。文禄三郡内知行方目録には鞍手くらて郡「ゑくち村」が載る。慶長九年(一六〇四)の宗像郡江口村の検地高一八七石余(慶長石高帳)

江口村
えぐちむら

[現在地名]岐阜市江口

瓢箪形をしたしま輪中の底部端にあたり、長良古川、長良川(井川)両満りようまん川の合流点に位置。鏡島かがしま村の古市場ふるいちばで中山道から北へ分岐した道は、同村大灘おおなだで長良川を舟で渡り、当村に入る。文明五年(一四七三)五月、美濃を訪れた一条兼良の紀行文「藤川の記」に地名が散見する。同月五日条では「江口といふは摂津国にある同名也。

江口村
えぐちむら

[現在地名]明和村江口

田島たじま村の南、利根川左岸に位置する。暦応四年(一三四一)二月一〇日および康永二年(一三四三)八月二〇日の寮米保西内島村注文(正木文書)にみえる佐貫江口又四郎は、当地に関係する人物であろう。応永三三年(一四二六)青柳綱政は「佐貫庄江黒郷之内近藤原之村」内の畠一町を江口なる者に売渡しているが(同年一二月一九日「青柳綱政畠売券写」同文書)、この江口も当地にかかわりのある人物とみられる。

江口村
えぐちむら

[現在地名]新潟市江口

本所ほんじよ村の南、阿賀野川左岸に沿い、南は大渕おおぶち村。開発は慶長(一五九六―一六一五)以前とされ、西方田地に館ノ内という地名が残る。寛永一六年(一六三九)の横越島絵図(青木正昭氏蔵)に「金十郎様御分江口村」とあり、沢海藩領であった。正保国絵図では高三〇四石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では三四〇石四斗余。貞享元年(一六八四)検地帳(新潟市郷土資料館蔵)では四郎左衛門せろうざえもん新田も含め、田方四四町四反五畝余・畑方七六町八反三畝余・川前畑四町一反三畝余・谷地六町四反一畝余で、納高三一五石三斗余。同四年幕府領、宝永四年(一七〇七)旗本小浜氏領となる。

江口村
えぐちむら

[現在地名]田主丸町以真恵いまえ

巨瀬こせ川右岸に位置する。屋敷地は巨瀬川に沿い、耕地は馬渡まわたり村・志床しどこ村・灰塚はいづか村・西牧にしまき村などと入組み散在する(上三郡絵図)。本高は九五石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一六〇石・役高三四六石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一七石七斗余・小麦九石六斗余・菜種四石八斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。寛政元年(一七八九)の撫斗代六斗八升、人数一二四、馬一二(上三郡取調手鑑)

江口村
えぐちむら

[現在地名]筑後市江口

富重とみしげ村の西、やま川左岸に位置する。本高は五一〇石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高九一五石・役高七四九石。享和二年(一八〇二)の春免高帳によると高七四九石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田四九町一反余・開田二反余・畑田一町余・畑五反余・種目不明六反余。旧高旧領取調帳では高一千一八〇石余。天正年中(一五七三―九二)に当地に移住してきた肥後国の浪人田中氏は、二代三郎右衛門の慶長元年(一五九六)以降当村の庄屋役を勤め、四代目市兵衛の承応二年(一六五三)以降は下広川しもひろかわ庄二三ヵ村の江口組大庄屋を勤めた(旧家由緒書)

江口村
えぐちむら

[現在地名]北茂安町大字江口字江口

千栗土居ちりくどいの内(北側)に位置。地形低湿、水害激甚地であった。正保絵図に村名がみえる。かつては筑後川岸の沼沢地で寛政一一年(一七九九)の三根郡千栗郷図は環濠集落の実態をよく伝え、地名も枝村に瀬戸せと小松原こまつばら西寄にしよりがみえる。筑後川を挟んで筑後国山浦やまうら(現福岡県久留米市)と対し、「江口渡」がある。正保絵図に、「江口渡広サ百十二間、筑後ノ内山浦ヘ出ル」とある。

江口村
えぐちむら

[現在地名]魚津市江口

片貝かたかい川扇状地の扇央部にあり、北は持光寺じこうじ村。かつて五千石ごせんごく用水という用水があり、その取入口であったのが村名の由来という(下新川郡史稿)。西の仏田ぶつでん村との境を北陸街道が通る。正保郷帳では高五五六石余、田方三一町四反余・畑方五町六反余、新田高二三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四九七石・免四ツ九歩、明暦二年(一六五六)の新田高四石、小物成は野役二九匁・鮭役一五匁・鱒役一匁・鮎川役三匁(三箇国高物成帳)

江口村
えぐちむら

[現在地名]広神村江口

破間あぶるま川の左岸、平地へいち山の南麓にある。南は今泉いまいずみ村、東は枝村長松ながまつ。正保国絵図に村名がみえ、高一一〇石余。天和三年郷帳では高一六七石八斗余、ほかに同所戸沢新田高六石二斗余がある。「新編会津風土記」では家数二三。安政六年(一八五九)の山蝋につき取極書(江口区有文書)によると、村中で山業に紛れて山蝋の株を伐り採ることを禁じ、禁を破る者からは科料五貫文を取る旨取決めている。

江口村
えぐちむら

[現在地名]下田村江口

五十嵐いからし川右岸にあり、上流は田屋たや村、下流は島川原しまがわら村、対岸は花淵はなぶち村。室町後期の蒲原郡段銭帳(米沢市立図書館蔵)に五十嵐保内の「江口之村」が記され、当村と思われる。正保国絵図では高一七〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では一三九石八斗余・家一五戸。

江口村
えぐちむら

[現在地名]新発田市江口

上内竹かみないだけ村の南に位置し、東を加治かじ川が北流する。初め村上藩領で、正保国絵図では一四〇石余。万治二年(一六五九)の本田田畑検地帳(新発田市史資料)によると大友組に属し、田一〇町六反余で一四六石五斗余、畑五町六反余で二七石六斗余であるが上田が五町五反余ある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報