江ノ島村(読み)えのしまむら

日本歴史地名大系 「江ノ島村」の解説

江ノ島村
えのしまむら

[現在地名]崎戸町江島えのしま

崎戸島西方五島灘に浮ぶ江ノ島を村域とする。南部に広い入江、北部に遠見とおみ岳がある。平家の落人が来住したという所伝、島名は武家が親しんだ相模国江の島(現神奈川県藤沢市)に由来するという伝承などがある。また鎌倉幕府の滅亡のとき鎮西探題の北条英時の残党が潜居、相模江の島にちなむ島名とし、八幡宮を祀ったともいう(江島村郷土誌)。江戸時代は大村領の外海そとめに属し、慶長高帳では外浦衆の知行。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に江ノ島とみえ、高六六石余で、田三町六反・畠四町五反余、物成三六石余。同一七年の総検地では高七〇石余となるが(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高は六六石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図でも江ノ島として高六六石余。正保郷帳(大村見聞集)では田五〇石余・畠一五石余。寛文四年(一六六四)の大村純長領知目録(寛文朱印留)では江島とみえ、元禄国絵図では長さ一八町・横一二町とある。

元和三年(一六一七)のイエズス会管区長宛のキリシタン連判書付に「五島江島」の「まる地いの上かい」「はるとろめう源兵衛」「べんと与次左衛門」「あんとうによ」「見ける伝二郎」らキリシタンの代表者と考えられる八名が署名している。遠見岳に遠見番所が置かれ、また正保元年(一六四四)幕府の命で大村藩異国船警備のために設置した崎戸大番所が管轄する小番所が設置され、異国船の監視を行った。外海一六ヵ所番の一つとして小給一、小船一・水主二が配備された(大村見聞集)。「大村郷村記」によれば、軍弓一・空穂一・鉄砲五・三つ道具一・幕半頭・高張一などを備え、番士一人が詰めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報