水泥古墳(読み)みどろこふん

日本歴史地名大系 「水泥古墳」の解説

水泥古墳
みどろこふん

[現在地名]御所市大字古瀬

水泥集落南方、巨勢こせ丘陵東麓斜面に約六〇メートルの間隔を置いて二基の古墳が南北に並ぶ。国史跡。水泥の双墓ふたつばかとも、今木いまき双墓ともよばれ、また二個の石棺を納める南の古墳をさして双墓ともいう。地元では石棺のある古墳を入鹿いるかの墓、石棺のないほうを塚穴つかあな古墳ともよんでいる。

「日本書紀」皇極天皇元年条に蘇我大臣蝦夷が「預め双墓を今来に造る。一つを大陵と曰ふ。大臣の墓とす。一つをば小陵と曰ふ。入鹿臣の墓とす」とあるが、「大和志」は「今木双墓」として「在古瀬水泥邑与吉野郡今木村隣」とし、この水泥古墳をあてる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「水泥古墳」の解説

みどろこふん【水泥古墳】


奈良県御所市古瀬にある古墳で、別称「今木の双墓」。吉野川流域に近い巨勢(こせ)山塊の東裾に、約60m離れて2基が南北に並存する。南の古墳は基底径約15m、高さ約6mの円墳とみられ、南面して横穴式石室が存在。玄室羨道(せんどう)は、花崗岩の割り石の積築によるもので、玄室は長さ約4.6m、幅2m、高さ現在約2.2m、羨道は長さ約6.2m、幅約1.5m、高さ現在約1.1mを有し、内部に2個の石棺をそなえる。いずれも凝灰岩からなり、身は刳()り拔き式で蓋は屋根形を呈し、前後および左右に突起部をそなえる。北方の古墳は基底径20m、高さ約7mの円墳で、横穴式石室が南に開口している。玄室と羨道からなり、玄室は長さ約5.6m、幅約2.95m、高さ約3.4m、羨道は長さ約7.8m、幅約1.95m、高さ約1.85mで、巨大な石材によって構築されている。これらの古墳はいずれも飛鳥時代の築造と推察され、それぞれ特色ある石室や石棺のある終末期の古墳として学術上の価値が高いとして、1961年(昭和36)に国の史跡に指定された。近畿日本鉄道吉野線ほか吉野口駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「水泥古墳」の意味・わかりやすい解説

水泥古墳
みどろこふん

奈良県御所(ごせ)市古瀬(こせ)ウエ山にある小円墳。野石積み全長10.7メートル横穴式石室の玄室と羨道(せんどう)に凝灰岩製の家形石棺が各一基あり、羨道の石棺の前後にある縄掛け突起に六弁の蓮華文(れんげもん)を彫刻する。北側の水泥塚穴山古墳では排水用の土管が出土しており、これよりみて7世紀中葉以後の古墳である。この二基の古墳を蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)の今木(いまき)の双墓(ならびのはか)とする説があるが、信憑(しんぴょう)性は弱い。

[猪熊兼勝]

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世界大百科事典(旧版)内の水泥古墳の言及

【巨勢氏】より

…孝徳朝の左大臣徳太(徳陀古),天智朝の御史大夫比等,708年(和銅1)に太宰大弐に任じられた多益須,715年(霊亀1)中納言に任じられた麻呂,718年(養老2)に中納言に任じられた邑治(おおじ)らがいる。御所市古瀬およびその周辺には,権現堂古墳(径約15mの円墳,6世紀前半の築造),新宮山古墳(径約25m,6世紀中葉~後半の築造),水泥古墳(径約14mの円墳,7世紀初頭の築造)があり,いずれも巨勢氏の奥津城と考えられる。また,御所市古瀬には,大きな心礎の残存する寺院跡がある。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」